旅をしている人
田原 晋

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旅の記録, スリランカ160295~25

スリランカで・3  みんなの家

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   またスリランカ航空の機内誌になるが、道端のシェルター・AMBALAMAという記事があって、この国の村では数世紀前から、道端にちょっとした休息所があることを紹介していた。熱帯だから屋根は欲しいだろうし、激しいスコールもあるから頑丈さも必要なのだろう。しっかりした柱と屋根の東屋。紹介された写真を見ると、人がいて現在も使われていそうなのは1枚だけ、それがゴールであることがわかって、もし寄ることができたら探してみようと、それをもらって行くことにした。

 

  ゴールの町は、半日もあれば歩き回ることができる。沢山の観光客の中で宿泊するのは、そんなに多くないようだ。歩き回って、ちょっとお茶にしようと思った時、観光客目当ての店はどうも気に入らなくて、学校と役場の間の広場にあるゴールの人たちだけの茶店にすわることにした。といってテーブルは多くなく、ほとんどの人は、役場の軒下や公園と道路の段差に腰をおろしている。大きな木が何本もしげって影をおとしているから、とても気持ちがいい。

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  店をのぞいて、葉でくるんだかしわ餅のようなのがあったので、それと紅茶を注文した。椅子を用意してくれたので、皆さんと一緒にテーブルにつく。お餅は風味があったし、紅茶はこの国のどこでもきちんとした味で出してくれる。どこから来たなど、どこでも言うようなお喋りをしていて、あ、こういう場所に当然のように坐っている、このことはひょっとしたら、とても珍しいというか黄色人種である日本人ならではの特権かもしれないと思ったりする。白人でも黒人でも、こうはいかないのではないか。あまりに違い過ぎて、ちょっと引かれてしまうのではないか?もちろん個人差の方がはるかに大きいと思うのだけれど、こちらは無意識のうちに日本人であることに甘えているような気がする。というか、こういう時無意識に当然のように、微笑みを持つことができる。そういうコミュニケーションのやり方を、子どもの時から教えられていたように思ったりする。

 

  よく見ると、くだんの東屋が片隅にあった。もちろん何人かの人はいたがあまり役立っている感じはなく、メインは茶店を中心にした広場の方だ。広場全体が、みんなの家というか、なんとなく立ち寄る場所になっている。そして、町の人だけでなく、外の人にも開かれた場所になっている。といって外人さんは見えない。東屋は、夜を過ごすこともできる、避難の場所として機能しているように思った。

  東北の震災後、お年寄りをメインの対象に考えられている「みんなの家」は、建築に固執し過ぎているのかもしれないと思ったりした。

 

        翌日もう一度行くと、おぼえてくれていて歓迎してくれた。相変わらず、外人観光客は誰一人として、ここにはやって来なかった。

 

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