旅をしている人
田原 晋

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ポーランド~バルト3国0509

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ゴメンなさい。地図が間違っています。
バルト3国のラトビアの領内にロシアと書いてしまいました。ロシアの飛び地はそこではなく、リトアニアとポーランドの間の地域です。こういうちょんぼをしてしまうのが、なんとも無知です。地図を取り替えればいいのですが、それが面倒で取り合えず、文字でお詫び訂正します。

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ポーランド~バルト3国0509

1. ゴメン日本人とわからなかった
 ベルリンのユダヤ記念碑で入場待ちの行列に加わったら案内のパンフレットを配っている青年が何語かと聞いてきた。反射的に英語と言うとその発音を聞いたためか日本語のもあると見せる。へぇー日本語があるんだと感心すると、「すみません、日本人ってわからなかった」と謝る。その謝り方が尋常でないことにこっちが驚く、中国も韓国も同じに見えるよ、こちらだってそうだ。と思いながら、ひょっとしたら間違えたことを怒る日本人がいるのではないだろうか。確かに見ればわかると思っている人が多い。
 でもこちらの経験ではほんとうにわからない。中国も韓国もみんな同じだ。ただ東洋人であることはすぐにわかって、それだけで親密感がわく。こちらが行く都市でもそこが観光地でなければ、会う東洋人は日本人でないと考えた方がいい。中国製の安い衣服を売る店はどこにでもあるから働いている人らしかったら彼等だし、若い旅行者なら韓国の人だ。当然向こうの人にその差はわからない、子供なんかは正直だからチノ、チノ〜とはやし立てる。違う日本人だ。ところで日本知っているかと尋ねると、いや知らないと言う。そんなものなのだ。
 
2. アウシュビッツのトイレ
 アウシュビッツ(ポーランドではオシフィエンチム)、こちらは乗り合いバスで行ったが、観光バスがたくさん着いていて世界中の人が訪れる博物館だ。説明を聞きながらグループで歩くのが一般的だが、こちらは日本語の案内パンフをもらって一人で歩く。
 すぐに見覚えのある入口、「働けば自由になる」の鉄製のアーチがある。思っていたより小さくほとんど背の高さ、しゃがみ込まないと見上げる感じにはならない。何時の間にか勝手に壮大なものを描いていたのだ、考えてみれば強制労働者にそんな大きなものを作る意欲なんかない。見ないものを普通に考えることは不可能に近い。
 それに続くレンガ造の建物のひとつひとつが展示場になっていて、悲惨な歴史を語る。たくさんの鞄や靴や義足や髪やそれで編んだ布や、子供の衣服や靴がただ積み上げられている。それをたんたんと見る、他人事のように。それしか方法はない、相手と関係ないと気持ちを切断することでやっと見ることができる。そして、こんなことをやるなんて人間ではない、こんな非人間的なことはナチスというとんでもない悪者がやったことで、私たちにはまったく関係ない。とつい思ってしまう。ただこちらはこれと同じような光景を、ベトナムでもカンボジアでも見てしまっている。そしてまた少年の頃それをやったドイツは同盟国で日本はそちら側で戦っていて、知らなかったとは言え周囲がそうであったように私もまた同じだった。これをやったナチスの若い兵士も、また殺された少年も、私とそんなに違わない人間だったと考える方が正しいだろう。誰だって生まれた時代と場所から逃れることはできない。殺された方も殺した者もそんなに違わない、時間が過ぎれば親しくなれたかもしれないのに。
 窓から外を見る。二重に張られた鉄条網の向こうにポプラが植わっている。その緑の見事さを収容者たちも見ただろうかと思って、そこの60年の時間が流れていることに気付く。彼等が見たのはもっと小さな細い木だったのだろうか。パンを買ってビルケナウ行きのバスに乗る。ここも入り口からレールが伸びている見たことのある風景があって、そのいちばん奥にある記念碑の前でパンを食べる。やっぱり周囲の緑は60年の成長を重ねたのだろうなと、それしか考えることがないみたいに眺める。クラコフへ帰ったのは5時、広場の観光客の波にもまれながら、何時もの無責任な旅行者になっていく。
 ルブリンの町、行き方をホテルで教えてもらいトロリーバスでマイダネク強制収容所へ、それらしい風景が見えて下車。博物館だから月曜は休みでセンターは閉まっている。誰もいない広い構内を歩く。展示棟は入れないが係員の配慮だろうか、ここだけにしか残っていないガス室と焼却場は入ることができた(アウシュビッツでは廃墟になっていた)。
 ガス室は、まず裸にされ労働力になるかの選別、残された者は髪を切られ(730kgになったとある)、体温を上げるための温水シャワー、そしてガス室(最初40分がガス開発で10分になった)。焼却場は鉄製のベッドで金歯や貴金属を飲んでないかを調べてから焼却、1日千体に及んだとある。その灰をおさめた霊廟の脇にすわって風に吹かれる。構内は夏草が茂るだけ、ここでもまた周囲の樹は60年を生きて来たのかと思う。遠くルブリンの町が見える。時々休みと知らなかった人がやって来て、写真など撮って引き上げて行く。休日がかえって良かったかもしれないと思う。
 ここまでの途中、ガス室を出たあたりでもうれつな尿意がして、トイレのある場所ははるかに遠いと、誰もいないのをよいことに展示棟の後ろに駆け込む。なんとそこは同じ行為の場所らしく草の色が変わっていてティッシュやナプキンも散乱していた。乾燥した空気の下では尿意がしても歩いているうちに蒸発するのが普通だが。ガス室を見た者の身体は、通常とは違う反応を示すのようだ。
 そう言えばアウシュビッツの入り口にあったトイレはとても大きく広くたくさんあって、コンクリートのむき出し壁に便器が並ぶさまはまるで収容所のようだと思ったのはごく普通の発想で、ここに来た人の身体は知らないうちの収容者と同じような緊張を強いられたものになるのかもしれない。

3. なぜ昔そっくりに修復したのか?
 ワルシャワの歴史博物館はスゴい。展示の最後にがれきの山となった広場の写真が壁一面に拡大され1945年と書いてある。それを見ていると、部屋の女性が隣の窓を開いてくれる。目の前に昔通りに復元された旧市街の市場広場があるという仕掛けだ。その落差に息をのむ。なぜここまで徹底的に昔そのままに修復したのか、ここに来るまで大きな疑問だった。住民も協力して昔の写真など持ち出し標識や壁のひびまで再現したと言う。実際住所の表記の書体はいかにもそれらしく稚拙だし路地の向かい同士で違っていたりして、それに違いないと思わせてくれる。
 戦争の末期ソビエト軍がワルシャワに近づき開放は目前という時、住民が一斉に蜂起した。ところがソビエト軍は動かず、ナチスは徹底的な破壊に踏み切った。映画の地下水道などで描かれた通りだ。もう少し待てばいいのに、なぜ蜂起したのか。その理由、どうも彼等はソビエトが好きではなかったらしい、だから一方的に開放してもらうより、一緒に開放したという同格の地位を望んだ、ソ連はそれを察知したということらしい。
 そして戦後、分割されていた祖国は独立を取り戻したのだが、ソ連の影響下だ。こういう時ナショナリズム・愛国の精神は、自分たちらしさの確立と昔通りの町並みの再現とを結びつけた。以上の理屈はわかるのだが、今回訪れてみてもう少し現実的な理由もあることに気付いた。
 なによりそれがいちばん楽な計画だ。まったく新しい街区を作るには大変なエネルギーが必要だ。しかも誇れるものにしようとすれば誰に計画をしてもらうかも大変だ。国は疲弊してそんなゆとりはない。よしんばそうしたとしても、住民全部の賛同を得ることはもっとむつかしい。ロシア系もドイツ系もいる。こんな時、昔そっくりにしようというのは、誰も反対しない。いやできない。(ニューヨークの貿易センタービルの再開発はいまだに決まっていない。意見の一致は国力があるとかないとかの問題ではない)。
 もうひとつその工法、石造ではなくレンガを積み上げてモルタルで化粧する方法で作られていた。細部のデザインや色は最後に付け加えることで完成できる。まずレンガをひとつずつ積み上げよう、これは敗戦の住民にとってすぐできる作業であり、何より祖国復興に参加する喜びを与えてくれたに違いない。かくて現在それは世界中の賞賛を浴び、たくさんの観光客が訪れている。同時に今も修復作業の延長として壁は塗り直され色もきれいにされている。これは戦災に遭わなかったクラコフやザモシチもまるで同じで、少しも古びていない。そういう工法であったし、その技術を持つ専門家(左官屋さんなど)がいるということだ。表面材と構造材が同じ石造だったらもっと違うものになった筈だ。
 私たちが考えるそんな大変なことようやるわという感想は、むしろ建て易いという工法を最初に考えてしまう私たちの感性の方に理由があるのではなかろうか。私たちはそこまで経済主義に捕われているとも言える。実際ポーランドではごく普通の新しいビルも、窓や柱が壁から飛び出しているなどはるかに陰影の多い造りになっていて、完成までにとても時間がかかっている。窓は二重ガラスで縦にも横にも開く頑丈なサッシだ。機能主義とは造るための論理ではなく、住む側というか生活する側の論理であったのだ。


4.ポーランドの国旗も赤と白
 今回の旅でいちばんうれしかったのは、その料理だ。餃子そっくりのものがあって、なんとタルタルステーキと同じくモンゴルの置き土産という。それは13世紀のことだからそれ以後の時間の中で様々に変化している。スープに入れて水餃子のようになったり、小さなお菓子になったり、ジャガイモやトウモロコシよりもはるかに古い。もちろん寒い国だからスープもいろいろあるし、お米もまたよく使われる。あまりに面白いのでクッキングブックを求めた。ワルシャワには英語専門の本屋さんがあって、待ってましたとばかりに数冊取り出してくれた。念のために聞いてみたが、やっぱり日本語版はなかった。
 征服されることで伝わる文化は、交流によって伝わるのとは違って有無を言わさぬものがあるだろうし、以後伝わってくるものに対しての対応も屈折したものになりそうだ。またそれぞれの体験による個人差も大きいだろう。ドイツ好きな人もロシアの方が好きな人もいるだろうし、お隣同士でも違うということが起こり得る。つまり外に対してどう考えどう対応するか、常に一人一人が求められて来たということになるだろう。またその接し方ひとつ、その考え方ひとつが生死を分けることも起こり得る。
 そう思った時、日本と同じく赤と白を使いながらまるで違う国旗のデザインについて考えてしまった。赤を情熱、国民の血の色だと考えるとポーランドのそれは上半分が白で下が赤なのだが、直接外部に接していて、対応がはっきりする。外部もまたその反応を確かめながら折衝を考えることになる。そうして外交とか交流がスタートする。お互いに緊張から逃れることはできない。現在であればまず説明責任が求められる、ま、世界から見ればごく普通の対応だろう。アメリカもイギリスもフランスも中国も国旗の赤は、外部に接している。
 それに対して日本という国のアイデンティティというか情熱は外からはっきりと見ることはできるのだが、直接に触れるというか何を考えているのかよくわからない。しかも国民はどうも内側のお互い同士のことしか考えていないようであるし、たまに見かけたとしても団体行動の人ばかりでほんとに世界に触れているのかどうかもよくわからない。外側にいる人は白いカスミのようなものにしか触れることができない。過去にその血の色にさんざんヤケドさせられた周囲は、その対応がもどかしいし、その対応は世界の常識から見ると逸脱しているようだ。とそれを言っても、まるで伝わらない。
 そう思って日の丸の旗をあらためて眺めると、ほんとに国としての自分勝手を表明しているだけで、個人の見えないへんちくりんなデザインに思えてしまうのだが、どうだろう。

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ポーランド~バルト3国0509

[1]運賃など/エアーリンク支払い
1. 航空券など/航空券 160,000. 関空施設使用料 2,650. 航空保険負担料 1,740.
     燃油チャージ 7,000. Finland旅客サービス料 1,400. 保安料 500. 通行料 900.
2. 旅行保険/13,510.         合計 174,190.+ 13,510./187,700円
[2]現地運賃など
2.8月31日(水)               [ポーランド通貨/zt ズウォティ、1zt=35円]
3.9月 1日(木) Berlin〜Wroclawヴロッワク・列車/42.6eur 6,000円 /POLANDポーランド
4.9月 2日(金)
5.9月 3日(土)Wroclaw〜Swidnica平和教会5 バス/5.00+9.00
6.9月 4日(日)Wroclaw〜Czestochowa バス/23.zt     造花/30+15zt
7.9月5日(月)Czestochowa〜Krakowクラコフバス/32.5zt 昼食35
8.9月6日(火)
9.9月7日(水) 夕食22.5
10.9月8日(木)Krakow〜Oswiecimオシフィエンカム(アウシュビッツ)*強制収容所、 夕食79
11.9月9日(金)Krakow〜NowySacz 11 夕食17
12.9月10日(土)Krakow〜ノビサック/木造教会点在(タクシーで)270zt=70eur=9800円
13.9月11日(日)NowySacz〜〜Lublin 48
14.9月12日(月)Lublinルブリン/マイダネク強制収容所 夕食47
15.9月13日(火)Lublin〜Zamosc 12.4
16.9月14日(水)Zamosc〜Lublin〜Warszawa 12.4+25
17.9月15日(木)Warszawaワルシャワ 
18.9月16日(金)
19.9月17日(土)                 コンサート/20(700円)
20.9月18日(日)Warszwa〜Vilniusヴィリニュス(列車)124(4,300円)/LIETUVAリトアニア
21.9月19日(月)                       [通貨/Ltリタス、1Lt=40円]
22.9月20日(火) リトアニア民俗生活博物館 6    ホテル夕食75(3000円)
23.9月21日(水) ヴィリニュス〜Rigaリーガ(バス)40/LATVIJAラトヴィア[通貨/Lsラッツ、1Ls=200円]
24.9月22日(木) ラトヴィア民俗野外博物館 1    コンサート/15(3000円)
25.9月23日(金) リーガ〜Talinnタリン(バス)8.5/EESTエストニア[通貨/EEKクローン、1EEK=9円]
26.9月24日(土) エストニア野外博物館 30(バス10+10)
27.9月25日(日)                コンサート/150(1350円) 夕食119
28.9月26日(月)タリン 〜ヘルシンキ高速艇/390(3,500円)

[3]ホテル代
1.8月30日(火)Berlin City Hotel am Kurfurstendamm 1 クーダム通りシティホテル1  55eur 
2.8月31日(水)Berlin  City Hotel am Kurfurstendamm 2  55eur× 2泊  7,604円×2
3.9月 1日(木)Wroclawヴロッワク Hotel Monopol 1      180zt
4.9月 2日(金) Hotel Monopol 2
5.9月 3日(土) Hotel Monopol 3
 6,673円×3
6.9月 4日(日)Czestochowaチェンストホーファ Hotel Ha-ga
70zt 2,492円
7.9月5日(月)Krakowクラコフ Hotel Wit Stwosz 1
67eur
8.9月6日(火)Hotel Wit Stwosz 2 67eur
9.9月7日(水)Hotel Wit Stwosz 3 78eur
10.9月8日(木) Hotel Wit Stwosz 4
67eur 9,678円×4
11.9月9日(金) Novy Soncz ノヴィサンチ Hotel Panorama 1
105zt
12.9月10日(土)Hotel Panorama 2
105zt 3,716円×2
13.9月11日(日)LublinルブリンHotel Europa 1
290zt
14.9月12日(月)Hotel Europa 2
290zt 10,264円×2
15.9月13日(火)Zamos ザモシチHotel Zamojki orbis
202zt 7,144円
16.9月14日(水)Warszawaワルシャワ 民宿1 100zt
17.9月15日(木) 民宿2 100zt
3,470円×2
18.9月16日(金) Hotel Gromada 1 300zt
19.9月17日(土) Hotel Gromada 2 300zt
10,720円×2
20.9月18日(日)LIETUVA/Vilniusヴィリニュス City Gate Hotel 1
21.9月19日(月) City Gate Hotel 2
22.9月20日(火) City Gate Hotel 3
 1,800 Lt 7,181円×3
23.9月21日(水)LATVIJA/Rigaリーガ Hotel Vecriga 1
24.9月22日(木) Hotel Vecriga 2 65 Ls
12,843円×2
25.9月23日(金)EESTIL/Talinnタリン Hotel Radisson SAS 1
26.9月24日(土) Hotel Radisson SAS 2
27.9月25日(日) Hotel Radisson SAS 3 2269eek
  20,746円×3
 合計/249,382円. ・24泊 平均1泊/10,391円

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ポーランド~バルト3国0509

Poland〜Baltic 3/200509
2005年9月、29日間の旅の記録です。また文字ばかりのメモですが、ともかく掲載します。
0.旅の前に
 ポーランド、中欧の国々を回って来たのだから当然ここにたどり着くのだが、ちょっと特別な国だ。ナチスによる占領とユダヤ人への迫害はこちらの記憶の中に強くあってわざわざそれを見たくないという気もする。と言ってカンボジアやベトナムで同じような収容所を見ているのだから、ここを敬遠する理由はない。無意識のうちに少年の頃が影響を与えているようだ、そう言えばグァムもひめゆりの塔も行っていない。とはいえ今年は開放(敗戦?)60周年、このところ注目しているドキュメンタリー映画監督の森達也もその施設を訪れているし、またポーランド出身のヨハネパウロ2世が亡くなって出身地のクラクフが注目されたりした。という話しを友人にしていたら、バーの主人がウオッカのビンを取り出し絶品だと言う、名前をひかえた。そういう後押しが、うれしかった。
 とはいえ、破壊された町を寸分違わないように再現したというワルシャワの広場、何よりそう発想をする感性を確認したいし、もちろん戦禍をまぬがれたザコパネもある、スロバキアで驚いた木造教会が山ひとつ隔てたこちら側にも多く残っているとのことでそれも見てみたいなど、何時もの旅の期待も沢山ある。そしてバルト3国に抜けると、最後の町タリンはヘルシンキの対岸だ。旅もこれまでになく楽にできそうだ。
 それにしてもと江戸300年を思う。とにもかくにも平和をそれだけの間続けたのは、人間の歴史の中で希有なことだ。戦争が終わってあれだけみんな2度と戦争はしないと平和憲法を誇りにしていたのに、たった60年で軍隊を海外に派兵し憲法を変えようと言っている。こだわっているこちらはすでに少数派だ。
  読んだ本 ・ヒットラーとは何か/セバスチャン・ハフナー、赤羽龍夫訳 草思社
・ 戦争の世紀を超えて/森達也、カン・サンチュー 講談社・物語バルト三国の歴史/志摩園子、中公新書
映画・ヒットラー最後の12日間(沢山のお年寄りの観客に驚いた)内容はほぼ読んだ通り。
テレビ・アウシュビッツ 5夜連続の放映があった、BBC制作
0−2 ベルリンの宿 前回の滞在時見つけて2泊したホテルへファックスを入れると、メールで返事が来た。
やはり行ったことのある街ははるかに楽に到着できる。時間も早いし、まずは快適にスタートできそうだ。
ついでにポーランド最初の街もメールすると簡単に返事が来た。ネット社会ならではの便利さだ。

1.8月30日(火)/バス・六甲Id〜関空 8:38〜9:30
   Finland航空/ AY078 KIX 11:00〜Helsinkiヘルシンキ 15:20
AY917 ヘルシンキ 17:30〜Berlin 18:25
 フィンランド航空はヨーロッパへ飛ぶにはおそらく最も便利な便だろう、乗り換えの時間を入れても直行便とほぼ同じ時刻に到着する。前回のベルリンは深夜の到着だった。それにしてもヨーロッパ内の国際線に比べ、日本発のエコノミークラスの扱いはひどい。座席は狭いし食事はまずい、行動を制限する。これは顧客の意見が直接に反映されないシステムのためだろう。要望は効率的に運びたい旅行会社の意見だけで、決定権のある上層部の人は乗ることはないのだから、その快適性の追求など配慮する人はいないのではないか。機内ではそれに気付く人さへいないほど見事に、(一足先に)身分社会が実現されている。
 隣席は、友人の結婚式でマドリッドに行くと言う元高校教師、留学経験もあり、こちらよりはるかにほんものの国際人、話も面白く感心した。ベルリン、一度来たことのある都市はやはりわかりやすい、連絡バスを降りると見知った街だ。ホテルの部屋は中庭向きだが、大きな樹木が目の前にあってうれしくなる。
                                 @City hotel am Kurfurstendamm 1
2.8月31日(水)Berlin/ユダヤ博物館(リベンスキ)、ホローコースト記念碑(アイゼマン)
 ホテルでの朝食(学生のグループ、先生に従順でお行儀もいいのに感心)後、まず駅へ。両替と列車の切符の購入、明日朝の出発にする。
 ユダヤ博物館、2年前は開館直前で外観しか知らない。隣の建物から地下道を通ると、まっすぐの階段が最上階まで伸びている縦長の空間。中空には斜めの梁がかかりスリットから光も入る。下りながら展示を見る。ユダヤの歴史が続くが、こちらには最後に用意されているなにもない空間が期待通り。リベンスキの建築がそのまま味わえる。床に置かれた鉄片の上を歩くと乾いた音が響く。鋭角的に折れる平面、カッターナイフで切り裂いたような窓など、これまでにない空間だ。地下のホローコーストの展示は個人が紹介されていて、一人ひとりに家族があり生活があったのだという、当たり前のことに気付かせてくれ、言葉を失う。中庭で軽食、外部を巡る。
  出口にある店で絵はがきを見ていたら、黒いハコが無数に連続した風景がある。場所を教えてもらうと、なんと中心部ブランデング門の傍「虐殺されたユダヤ人のための記念碑」。今年5月の開館、知らなかった。地下に展示があるとのことで並んだら、日本語のパンフレットをくれた。大変な議論の上に決定したらしいが、ドイツという国は首都のもっとも目立つ場所に、自分たちの恥ずべき歴史をあきらかにする建築を建て管理し無料で見せている。子孫にも同じ責任を持たすその覚悟に、敬意と羨望のようなものを感じる。
 旅ののっけからこれまでにない重い経験だ。せめて口(目)直しにとFゲーリーの銀行をのぞき、Jヌーヴェルのラファイエット百貨店の地下で、魚のスープをもらう。北国ならではの楽しい屋内空間だ。民俗博物館は時間がなくあきらめる。夕食は前回の古い店を探すが、見つからず別の店、帰りに気付くが残念。
                                  @City hotel am Kurfurstendamm 2

3.9月 1日(木)Berlin〜Wroclawヴロッワク  列車IC241/Berlin Oct 09:54〜Wroclow 15:42 
 さぁポーランド。と言って風景は変わらない、国境は植林された森のどこかだ。列車内の通関は型通り。
 この文字でこの発音がなぜ?という英語とは遠い言葉の都市に着く。人が多い豊かな町、予約の古いホテルへ、思った通りの部屋に満足する。町へ。広場は観光客でいっぱい、i/tourist informationで行き方など教えてもらう。そこで知ったのだが、この街も戦災で壊滅した都市だ。広場はすべて戦後に復興したもの。それをテラスにすわって眺める、表面材がテラコッタ、漆喰、モルタルであるから可能だったのだろうが、やはりすごい。
 旧市街を一通り歩いてみる。蛇行する川に囲まれたヨーロッパに多い立地だ。似ている町を思い出してみる。
夕食は広場の店。                          @Hotel Monopol 1

4.9月 2日(金)Wroclawヴロッワク/工芸連盟ホテル、カメレオン百貨店、百年記念ホール 
 まず20世紀前半の建築。メンデルゾーンの1924年の百貨店、隅部の曲面窓が表現主義していて楽しい、内部は階段部分が昔のままだ。シャロウンの1929年の寄宿舎、今もホテルとして現役。受付の女性がメゾネット型の部屋を見せてくれる。経済主義以前のモダニズムは住む人にとっての機能主義なのだと、あらためてその手の混んだ細部に感心する。建てるための機能主義とはまるで違うと、その変貌をあらためて知る。1913年の百年ホール、ナポレオンを撃退してから百年の記念というが、コンクリートによるドーム(直径65m)は採光への配慮もある。現在も催しはもちろん観光客も多い。そのカフェで一休みしていたら、アベックが来てキスしていた。
 旧市街に帰り大聖堂、その塔の上から市内を見渡す。前にあるレンガ造の市場、ここもコンクリート架構。食材を見る。パノラマという打ち放しコンクリートの円筒の博物館、中央採光で周囲の壁にリアリズムの戦争絵巻、これを解説付きで見る、1794年帝政ロシアの軍と戦って勝利した農民兵の話しという。入場者は結構多い。
@Hotel Monopol 2 
5.9月 3日(土)Wroclawヴロッワク/〜シヴィドニツァ/*平和教会(17cプロテスタント木造)
 バスで1時間半のSwidnicaシヴィドニツァという町へ、そこの17cの木造のプロテスタントの教会がある。思った以上に大きく、内部の彫刻、稚拙な天井画に感心する。バスで来る団体観光客でいっぱい。ただ外部の修復は製材した木材を使ったためか、どうしようもなく残念。(もう1カ所あるがそれは遠い、どちらも世界遺産)
 小さな町の広場は土曜で賑わっている。仮設の遊園地や焼き肉、それで昼食。東洋人は珍しいようだ。16:00に帰る。土曜の町はあちこちで結婚式、旧市庁舎の博物館までそれで閉館、なんたることや。ホテルの横の教会は深夜までジャズの演奏。夕食は土地の人が行く店を探す、ビアホールがその役目を果たしているようだ。初めておいしいと思う。
@Hotel Monopol 3

6.9月 4日(日)Wroclaw〜Czestochowa チェンストホーヴァ(ヨハネパウロ2世出身地)
 バス07:40〜11:00で移動。この国の聖地ヤスナ・グラ僧院(聖マリア教会)の門前町。安宿を駅前で取り、出掛ける。日曜で何かの記念日らしく大変な賑わい。僧院前の広場では法話の最中、テレビも中継(夜のニュースで流れていた)。農作物で山車を作って来る風習があるようで、民族衣装の女性たちがそれを囲んでいる。カメラを向けると喜んでくれる。いろんな形があって楽しい。僧院内部もまた大変な人、聖画の「黒いマドンナ」も人の間から見ることができた(この絵のコピーを多くの教会が掲げている、この国を代表する絵画)。広大な駐車場に観光バスも無数に停まっていた、全国からの巡礼だ。
 広い参道、お参りの人はこちらにはあまり来ないようで微妙に人が違う、土地の人と観光客。ここでは農機のフェア、民俗音楽とフォークダンスの舞台、それに工芸品の店と食堂。モンゴルの置き土産という餃子が変形したピエロギがうまい。手の込んだ紙細工の造花を買ったら(1000円)写真入りの名刺をくれた。以後これほどの細工はどこにもなかった、ほんとうに良い日に来たものだと感謝する。早い夕食をすましてホテルへ。
                                   @Czest Hotel

7.9月5日(月)Czestochowa〜Krakowクラコフ
 バスは他の町から1時間遅れで満席。お昼に到着。道を間違えたのか相当歩いて町の中心部まで来てしまう。ホテル探し、iで紹介されたホテルは気に入らず飛び込みで交渉ともかく今晩の宿を確保、屋根裏部屋、部屋を変えながら4泊できたが、旧市街のホテルは狭く高く混んでいる。広場で遅い昼食、スープと一品。
 ここは戦災をまぬがれたのだが、中心の織物会館は片面が修復中。壁の塗り替えは頻繁らしくみな新しくきれい(ヴロッワクやワルシャワと変わらない)。カメラなしで歩き休んで過ごす。夕食はサンドイッチ(この国ではトーストするのが一般的で、ハムとチーズ一般的だがカツやツナなどいろいろで、これで済ます人が多い)
                    

8.9月6日(火)Krakowクラコフ
 まず城へ、全部見ると言うと55zt(約2000円)取られる。案内付きで奥まで見せてくれたので、その価値はあったようだ。昼食も場内でピエロギ餃子。対岸に磯崎新の日本美術「mangha」館があり行く。
 そこで広島大のken先生に会い結局半日ご一緒する。20年ぶりに留学したベルリンを訪れた話しなど、見えない部分を聞くことができた。夕食は案内されて広場近くのビュッフェ式の食堂、この国にもあったのだ。聖マリア教会の塔から1時間ごとにラッパが吹かれる、モンゴル兵に途中で射られたとかで突然音が消える、いい感じだ、拍手したらラッパをふってくれた。彼は明日はプラハとのこと、うれしい出会いだった。

9.9月7日(水)Krakow〜Oswiecimオシフィエンカム(アウシュビッツ)*強制収容所、
 ところでバスターミナルは鉄道駅周辺の再開発工事で、別の場所に移転していた。到着時こちらが遠回りしたのでなく地図とは違う場所に着いていたのだ。そのことを、駅からずいぶん歩かされてたどりついた乗り場が、一昨日到着した所だったことで初めて気付いた、なんということだ。結局着いた時よりさらに遠回りしていた。
 アウシュビッツ行きのバスはすぐに発車、10:30到着。大変な人でチケットを買うのは収容される行列のようだし、トイレもがらんと大きく収容所みたいだ。入り口の何度も写真で見た鉄製の門は、思っていたよりはるかに小さく低くしゃがみこまないと見上げる感じにならない。レンガ造の建物が並ぶ中を歩く。たくさんの鞄や靴や義足や髪やそれで編んだ布や子供の衣服がある。それをたんたんと見る、他人事のように。それしか方法はない、相手と切れることでやっと見ることができる。
 パンを買ってビルケナウ行きのバスに乗る。入り口からレールが伸びている見たことのある風景、そのいちばん奥にある記念碑の前でそれを食べる。緑は60年の成長を重ねたのだろうなと思う。
 クラコフへ帰ったのは5時。広場と公園へ。夕食は昨日のビュフェ式。広場のカフェでもう顔なじみだ。

10.9月8日(木)
 iでもらったマウロポルスカを案内した本にあった近くの野外博物館に行ってみることにする。小さな村、小学生グループと同行する。でも民家は1軒だけ、わざわざ来ることはなかったがピッツァ屋の屋外テーブルは楽しかった。皆さんの挨拶の仕方や、ただうろうろする人がいたりなど。帰りはマイクロバス、帰着3:00。
 広場の写真を撮る、塔にものぼる。だが美術館はもう閉まっていた。夕食は広場のレストランできちんと食べる。きのこスープと鶏にサーモンを入れたメイン、手は込んでいますがまあまあ。79zt(2,700円)隣は同年輩のドイツの夫婦、もっといろいろ話しを聞きたかった。

11.9月9日(金)Krakow〜NowySaczノビサックMalopolska(小ポーランド/マウォポルスカ,Lesserpoland)
 バスは9:00発〜11:00着、広い公園を通って町の中心部へ(似た町がハンガリーにもブルガリアにもあった)ネットで調べたiへ。ホテルを紹介してもらい、明日の車のチャーターを依頼。まず郊外の国立野外博物館へバス。さすが充実、若い学芸員さんがこちら一人のために広い園内を案内してくれた。小学生が作ったという案山子が並んでいて面白かった。夕刻町に帰りiに寄ると明日の車、友人が行ってくれるというがそれでもいいかと言う。もちろんこちらに文句はない。ともかく明日は村をまわることができる。夕食は広場のビアホール。
 
12.9月10日(土)NowySaczノビサック/*木造教会点在(車をチャーター) 
 8時車到着、iのパトリシアさんとマイケル君。まずお金の交渉、結局150ztとガソリン代(合計約1万円)、iのコンピュータで明日のバスの時間を調べてから。出発。最初はスロバキア国境づたいの道を行ってもらう、考えていたよりはるかに開発が進んで茅葺きはもちろん伝統的木造の民家はない。山ひとつでこんなに違うかと国境というもにあらためて不思議な感じを持つ。だが木造教会は修復のやり方で良かったり残念だったり(屋根はブリキとこけら板とがあり、後者はほんとうに見事)。カトリックのそれは現役で礼拝の人が多い。結婚式をやっているのもあった。最後に民家村に寄ってくれるが閉館後。帰着19:00、250km。時間が足らなかったが、ともかく回ることができた。二人はデートをしたようなものかもしれぬが、ともかく大感謝。夕食は昨日と同じ場所、そこしか見当たらない。


13.9月11日(日)NowySacz〜Lublin 8:05〜15:50                            
 7時チェックアウト、支払い済の朝食を食べる時間なくパンとチーズをちょうだいと言うと、ちょっと待てと弁当を作ってくれた。パン4種でハムとチーズのサンド(おむすびの逆で、中身が同じでまわりのパンが変わる。その風味の違いが結構いけた)、ジュースのビン、チョコのバー、リンゴ、が袋に入っていて、その手早さに感謝感激、ここにも主婦の技能がありおふくろの味があるのだと当たり前のことに気付く。
 バス8:05発、途中30分の昼休み、15:50着。Iがわからず通りにあるホテルに飛び込む。町を少し歩いた後通りのテラスで食事/コンソメ、鱒のボイルド、サラダ、なかなかの味だが箸が欲しい。
14.9月12日(月)Lublinルブリン/マイダネク強制収容所
 行き方をホテルで教えてもらいトロリーバスでマイダネク強制収容所へ、それらしい風景が見えて下車。博物館だから月曜は休みでセンターは閉まっている。誰もいない広い構内を歩く。展示棟は入れないが、係員の配慮かここだけに残っているガス室と焼却場は入ることができた(アウシュビッツでは廃墟)。ガス室は、まず裸にされ労働力になるかの選別、残された者は髪を切られ(730kgになったとある)、体温を上げるための温水シャワー、そしてガス室(最初40分がガス開発で10分になった)。焼却場は鉄製のベッドで金歯や貴金属を飲んでないかを調べてから焼却、1日千体に及んだとある。その灰をおさめた霊廟の脇にすわって風に吹かれる。構内は夏草が茂るだけ、周囲の樹は60年を生きて来たのかと思う。遠くルブリンの町が見える。時々休みと知らなかった人がやって来て、写真など撮って引き上げて行く。休日がかえって良かったかもしれないと思う。
 途中、ガス室を出たあたりでもうれつな尿意がして展示棟の最後の後ろに駆け込む。なんとそこは同じ行為の場所らしく草の色が変わっていてティッシュやナプキンも散乱していた。乾燥した空気の下では尿意がしても歩いているうちに蒸発するのが普通だが。ガス室を見た者の身体は、そのような通常とは違う反応を示すのだろう。その発見にあらためてショックを受けるとともに、それがわかっているだろうにそこにトイレというふさわしくない異物を作らない徹底さにもまた感心した。

 市内に帰って、遅い昼食(芝生の中の気持ちのいい店)トーストサンド、市内から旧市街をぶらぶら、と午前の体験とはまるで関係ない行動を平気でしている。我ながらしぶとい。博物館は休み。夕刻から雨、気温が下がって寒い、いよいよ秋というより晩秋だ。ホテルは英語の新聞もテレビもなし。言葉のわからないニュースが日本の選挙は小泉の圧勝という、予想した通りだやれやれ。

15.9月13日(火)Lublin〜Zamoscザモシチ/*旧市街、市庁舎、
 9時発のバス、途中の停留所で我慢できず待ってもらってオシッコ(昨日の身体の緊張がまだ残っていたのかもしれない? みなさんに謝るが、そんなもんよという反応。)、11:30到着。そこから市内までマイクロバス。広場に面したホテルをとる。小さな町、広場も市庁舎もまぁそんなものだろうという印象。ケン先生がわざわざ行くことはないと言ったが確かにそうだ。夕食は広場のレストラン、夜は気温が下がる。部屋で荷物の整理など。
16.9月14日(水)Zamosc〜Lublin〜Warszawa
 ワルシャワへ行く日。7時食堂は日本人ばかり(観光地の立派なホテルではこういうことが多い)、ツアーご一行と夫婦で旅という人と、もっと話しを聞きたかったが時間がない。出発、乗り場で連絡バスが来ないのでタクシーでバスターミナルへ。ぎりぎり間に合って8:15発、ルブリン10:00着。トイレを済まし乗り場に行くとワルシャワ行ベンツのミニバスが出るところ。乗客5名、10:20発、中央駅の近くに無事13:00着。直行バスは11時発で夕方遅くの到着予定だったから、ずいぶん早い到着だ。ともかくワルシャワだ。
 駅で時刻を調べ、ホテルを探そうとしたところで宿があると声がかかる。民宿一人だけ、自分の母の家なんだと言う。住宅を見れる機会だとともかく行ってみる。公営らしい高層アパートの15階、2部屋にキッチンと水まわり、給湯栓がある。おばあさんも柔和だし、眺めも地の利もいい(中央駅と旧市街の中間)と2泊することに。カギは2つ、家とエレベータ室用。
 町へ出る。遅い昼食は土地の人ばかりの店でカバブご飯、まず旧市街の広場でカプチーノ(これが再現した街なのかと眺める)、オペラハウス、商店街で両替と夕食、焼き餃子うまい(モンゴルの置き土産という、他にもタルタルステーキも?)。ちょっといたずらしたくなって、おばあさんに花束を買って帰る、早速息子に電話してた。住宅平面図スケッチ、荷物整理と今後の計画づくり、ワルシャワは4泊にする。それにしても寒くなった。

17.9月15日(木)Warszawaワルシャワ
 朝食7:30、バケツを借りて洗濯。8:30出発、まず駅でリトアニア行のチケットの購入。駅に近いホテルの予約。
民俗博物館/期待以下だったが、ソ連時代の刺繍が楽しかった(主婦の作品)。ショップはまた来ることに。
旧王宮博物館/修復した王宮を見せていて豪華だが、係員の官僚的態度や順路設定の仕方などにあきれる。
歴史博物館/市場広場に面した建物。最後に破壊された広場の写真があり、隣の窓を開くと復元されている、その落差には感動する。その小さな写真集を求める。王宮横の教会の塔の上から撮影。
聖十字教会は18:00、夕べの祈りがはじまった。昼食は魚とスープ、夕食は餃子スープ。(スープは実に多種)


18.9月16日(金)
 朝から雨7:30朝食、ノートをとって上がるのを待つが結局雨の中を9:00出発。おばあさんはどうしても写真を撮らせてくれない。 ホテルにチェックイン。典型的な二人部屋、大きなデスクが気持ちよくて大満足。
 小降りの中ワジェンキ公園へ、入り口の食堂で昼食。公園の中にショパン像、壮大で彼のイメージと違うと思ったが、国家の英雄なのだ。宮殿は大きくはないが前後に大きな池があって、気持ちよさそう。権力の誇示より、住んで楽しい設計。池越しの写真を両側とも撮ろうとずいぶん歩く、途中何匹ものクジャクが歩いていて驚く。
 町に帰り民俗博物館のショップ、まけるとか端数を切り捨てるとかをまるで知らない、そのことに驚く。夕食はホテル近くの若者で満員の店、安くてうまい。19:00すぐ近くのコンサートホールへ、ワルシャワの秋2005現代音楽祭の開幕コンサート。国歌の後は、武満徹、中国人の曲、最後は松下功の和太鼓のコンチェルト、祭り太鼓のリズム。作曲者も壇上に上がり大歓声の中に終わる。なんと日本を感じたことか。シャワーを浴びて寝る。
19.9月17日(土)
 7:30朝食、体育系の国際会議をやっていてその人たちで満員、日本人もいるが挨拶しそびれる。ノート整理をして9:30町へ。文化科学宮殿(ソ連が立てたばか高い建物ということだが、周囲にそれを越す超高層ビルが新しくいくつも建っている。そこから地下鉄で旧市街へ、逆方向のホームへ出たら外に出るしかなくチケットを1枚損する。蜂起記念碑(45周年の1989年に建てられたという)市場広場でカフェにすわる、3回目。周囲は初めてらしい人ばかり、観光客としては珍しいかも知れぬと思う。
 それにしても寒い、明日からのバルト3国を想いショッピングセンター(新しいビルができ、スーパー。メディア店、百貨店など西欧資本が流入している)でジャンパーとCD1枚求める。夕食は昨日と同じ店。ポーランド料理本(英語の本屋がある)を求め、コーヒとケーキ。荷物造り。

20.9月18日(日) Warszwa〜Vilnius 7:00〜17:50
 6:15ホテルをチェックアウトし駅へ。定刻通り列車が来る。ローカル列車で席は自由、コンパートメントは5人、若者の英語の通訳で話す。少しづつ降りて最後にドイツ語を話すおばあさんと2人。民宿のおばあさんも同じだが、わかると思うのか長々と話しをしてくれる、こちらは音楽のように聞くだけだ。激動の人生を生きて来た彼女たちの話しをきちんと聞けたらどんなにいいだろうと思うし申し訳ない気になる。彼女の降車に合わせ乗り換え2輛だけになって国境を越える。パスポートチェックはごく簡単。時差1時間。また列車を乗り換え、最初は4人席を占拠してたがだんだん増えてやがて満員になってヴィリニュス到着17:50。
 駅前で両替してから、駅近くのホテルへ、思った通りでほっとする、再び駅へ、バスの時間をチェックして、構内の食堂で夕食、魚フライとスープまずまず。2階がスーパーで水を求めて部屋に帰る。なにもしないが長い一日だった。窓から教会の塔が重なる市内を眺める。
21.9月19日(月)LIETUVAリトアニア Vilniusヴィリニュス/市内
 なんと8:00まで寝坊、この旅で初めて。食事後市内へ。大聖堂と王宮は再建中、鉄骨構造にレンガを積み上げる時間のかかる作業が進行している。市庁舎広場もまた修復中、ポーランドより丁寧で技術も高いようだ。
聖ペテロ&パウロ教会/白い厚みのあるレリーフ彫刻が壁天井をおおっていて圧倒される。日本語のパンフあり。聖ヨハネ教会/大学付属の教会、ここでも祭壇が彫刻のような立体感がある。その前の中庭も見事だった。
聖ミカエル教会/建築博物館になっている、現在も建てるための効率とは違うものが計画されているようだ。
町中の新しいビルにも、壁に凹凸があるなど時間がかかっている。切手を買う。
昼食はメイン通りのカフェ、ホットトーストがうまい。夕方のカフェのジャムやチーズ入の小餃子に感心。
夕食を期待したが、ホテル食堂が休みで駅の食堂へ。名産はコハクらしいが、こちらはどうも。

22.9月20日(火)リトアニア民俗生活博物館
 7:50発のバスで第2の都市カウナスの近くまで、停留所に停まらず行き過ぎる。帰るのが大変だったが(英語がまるで通じない)、トロリーバスの運ちゃん(無料で乗せてくれる)やお姉さん(乗合タクシーんを仕立ててくれる)の親切で無事ルムシシュケスの停留所へ。そこから2km歩いて到着10:30、リトアニア民俗生活博物館。地図を買い歩く休みなしで14:00まで、広大、途中で雨。材木が多い国だから丸太をそのままか半割で使う。シックイは使わない。屋根は板葺きかスレート葺き。入り口にベンチのあるのを、19世紀スタイルと呼んでいる。係の女性たちが休んでいる。食堂は閉店で昼食は持参のビスケットと水。英語の本を求めて、また停留所まで2km、中は7kmと言われる、よく歩いた。ヴィリニュス帰着16:00。町を散歩、少し買い物。
 夕食は4星ホテルで、料理を選んでもらう、赤かぶらのスープ、豚のエスカロップ。やはりおいしかった、が高い。
23.9月21日(水)ヴィリニュス〜リーガ/LATVIJAラトヴィア Rigaリーガ
 8:30ホテルをチェックアウトして、町の散歩とカプチーノ、好きな町だった。バスは10:00発、途中休憩あって、国境を越えると道悪くなり工事中多い。15:00着。目星のホテルは満室、3軒目の紹介でやっと見つかる。思った以上の大都会。途中はリトアニアより貧しかったので一極集中度が高いということか。遅い食事を屋外のテラスで、ピンクのスープ(なんと冷たい大失敗)とトースト(忘れた頃くる)で気分悪い(しかも1000円)やはり観光地。だがオペラハウスで明日チェコフィルとMマイスキーのコンサートがあるので両替してチケットを買う。夕食はトーストサンド、この町はすべて高い。。
        
24.9月22日(木)ラトヴィア民俗野外博物館、ユーゲントシュティール建築、*チェコフィルコンサート
 朝、民家村へのトラムの乗り場がわからず1時間うろうろする。10:30到着、大変な人。英語の解説はなく、つまり観光用ではなく自国民への意識高揚の場のようだ。国の威信をかけ古い民家を集めたようだ。内装はいずれも同じ豊かな生活だ。食堂でスープとパン。舞台でダンスをしていた12才の女学生を撮らしてもらう。
 14:00町へ帰る。ユーゲントシュティール建築の多い通りに行く、アールヌーボーと似て非なる無骨さが楽しい。同じ時代にいても場所により表現は大きく異なる。この辺りは高級な住宅街らしく落ち着いた暮らしが見える。レストランもはるかに良さそうだが時間がない。中央の広場のパンケーキ屋(スープ3種あり)で早い夕食、ホテルでシャワーと着替えして、19:00オペラハウスへ。盛装の淑女紳士に見事な内装、音楽は盛り上がるべくして盛り上がるという感じ。スメタナの序曲にドヴォールザークのチェロ協奏曲と第7番交響曲、アンコールもあって、22:30ホテルへ帰る、楽しい時間だった。

25.9月23日(金)リーガ〜タリン 12:00〜18:00
 9:30市内散歩、タリンのホテルは当日の予約できず(昨日すべきだった)、インターネットの普及はホテルを予約してから移動するものへと変化させたようだ。町の旅行会社がパソコンで対応してる、便利なような、見て選べないのはつまらないような。でも次回からはその方式に従うことになるのだろう。そんな散歩をした後バス乗り場に。ヴィリニュス発のバスは1時間遅れでやって来て、12:30出発満席。また道路工事が多い。ラトヴィアは、インフラ整備中というか2年後には快適になっているだろう。国境通過後は快適に走って17:50やはり1時間遅れで到着。バスターミナルのiは若者で大変な行列、ホテルは自分で探すことにする。
 旧市街入り口の大ホテルに行くと満室。紹介を頼むと近くのRadisson SASホテル、1泊だけなら仕方ないと2万円也を覚悟する。といって部屋に入ると快適、大きな窓から旧市街が一望。中層をビジネスクラスとして個人客相手に安く?開放しているらしい(他は旅行会社がおさえているようだ)
 夕食は近くのショッピングセンターで、トーストサンドとコーヒー。部屋に帰って、ホテル探しの面倒を考えると、もう2泊ここでしてもいいではないかと思う、人間ぜいたくにはすぐ慣れてしまうものだ。

26.9月24日(土)EESTエストニア   Talinnタリン/市内、エストニア野外博物館
 7:30起床、どうも夜明けも遅い。朝食、日本のツアー客(みなさんこういうホテルにお泊まりなのだ)。市内見物、ホテルの一行さんと一緒になる。広場でお茶の後、民家村へ。昼前到着、広場でフォークダンスと民謡の演奏、ツアー参加らしい日本人が踊っていた。ここもアイデンティティ確立の場所だが、観光客も多く印象はソフト。同じ民家村も3国それぞれに似ていて違うのが面白い。民家では漁業の人のそれは作業より住むことが中心だから、こちらの目には好ましい。海岸で乳母車を押す若夫婦がいて、湾の向こうにタリン市街が見える。帰りのバスで同年輩の日本からのアベックに会う。こちらの意地悪な目をやさしくたしなめられた。タリンはこれまでになく日本の人に多く会った。旧市街を歩く。26日の高速船のチケットを購入、これで予定はすべて決まった。夕食はショッピングセンターのビュフェ式食堂。歩き過ぎか、疲れか、シャワーは止め改源を飲んで寝る。

27.9月25日(日)   Talinnタリン/市内、コンサートホール/合唱コンサート
 最後の日だ。7:30起床、シャワー、なんとか元気だ。部屋でノートをとってから出発。市庁舎、地下の博物館は休(博物館は月曜休日と信じていて、どうもこういう失敗が多い)。 人形の博物館かとのぞいたら、1864年からのチョコレート屋さんで、なんとも味のあるお菓子(マルチパン)を買う。隣の同じ店のカフェは開店当時のままで写真を撮る、こういう店はなぜか観光客は入って来ない。土地の人で満席。町をぶらぶら店を冷やかしたりカフェに座ったりして過ごす。手編みのセーターは買わず。早い夕食をビアホールで、スープがやはりおいしい。出ると向かいのコンサートホールに人だかり、アメリカからの旅行客の一団がいて19:00から合唱のコンサート(第12回国際東方正教会宗教音楽祭)と教えてくれる。チケットを求めホテルで着替えて出掛ける。タリンの少年少女からヨルダンの女性、モスクワの男性合唱など、キリスト教の曲。なかなか楽しかった。満足してホテルへ、これで旅は終わった。

28.9月26日(月)タリン〜(高速艇10:00〜11:40)〜Finlandフィンランド ヘルシンキ
 チェックアウト、8:57のバスで乗り場へ,大きな乗り場日本のツアーの一団もいるが、話しはせず。乗船時に通関、10:00発、することなく到着。市内へ行くバスを待つが途中地下鉄乗り換えで行くらしく教えられるまま移動(まるで言葉のわからない女性がいて一緒に行き駅で別れる)。ヘルシンキの町には日本人が多く、iでは日本語で対応してくれる。バッグを持ったままアアルトの会館で外観を見ただけで、バスへ。
    フィンランド航空 AY077 ヘルシンキ 17:15〜関空 *08:40  
 隣はオーストラリア在住の韓国系の大学教授ご夫婦(頭脳流出だ)、日本を旅するとのことで楽しく過ごす。
29. 9月27日(火)08:40関空
 帰りのバス、英語がわからないイタリア人がいてホテルを探してあげると、とても喜んでくれて恐縮。どうもこの国では、英語がわからない白人がいるということがわかってもらえないようだ。

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