旅をしている人
田原 晋

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ウィーン、ブルガリア、ブカレストの旅0603

[旅で思ったこと]

1/ウィーン旧市街の通り
 着いたばかりのウィーン、住所さへわかればホテルを探すなんて簡単なことだと、せっかく位置を示してくれた地図をいらないと断って歩き出した。通りは広い道に面したところであっけなく行き止まりになっていたから、ここまでにないのがおかしい、ともう一度帰ってみたがない。通りをもう一度確認してみたが間違っていない。夜の道は尋ねることができそうな人は歩いていない、仕方なく横の道のはるか向こうに見えた別なホテルに行って尋ねることにした。住所を見てこちらが探した通りで間違いないと言う。また行ってみるが、ない。あきらめてそのホテルに戻ってお宅に泊めてよと言うと、親切にも番号を探して電話してくれた。そしてこちらが行き止まりと思ったその先に行くのだと言う。道はカギ型に横に10mほど行ったところからさらに延びている。入口にここと同じテントがかかっている、色は白だけど。ということですっかり重くなったバゲッジを引っ張って歩く。確かに言われた通りに道はあって、折れてすぐのところにホテルはあった。5分と言われた場所に1時間近くかかってしまった。
 こちらが勝手に行き止まりと考えた、その常識が間違っていた。通りとは視界がひらけて続いていて、それが目に見えるものだ。誰も教えてくれたわけでもないのに、勝手にそう信じていたらしい。城下町ではガギ型に道が折れているということは知っていたが、それをはるかに越えたカギ型だったということだ。翌日地図を見るとその先に博物館があったので歩いてみることにした。
 旧市街の一方通行のバス道、両側に5階建ての家が途切れなく並んで、わずかにカーブしたりして続いている。1mばかり飛び出した家もある、これは立ち退いてもらうことになっているのだと歩道をそこで行き止まりにするのではなく、わずかではあるがその家の前にも歩道をちゃんと付けて、公道が折れている。逆にひっこんだ場所もあって、公園とは言えないけれど、木があったりベンチがおいてあったりした。電車が通る広い道が横切っている場所では十字の四つ辻になるのではなく、ずれるのがむしろ普通だ。おそらく広い道は後で拡張したもので、その間を斜に走っていた道がそのような形になって残ったのだろう。と考えるとずれているのが正常ということだ。そこには建物が優先して道路があるというか、あるものは仕方がないから残せばいいという姿勢だ。
 こちらの頭の中に、道路を優先して都市というものができているという発想があるようだ。いや道路を計画すれば、建物はそれに従って建て直されるものだという常識がみなぎってしまっているとでも言うか、人間の頭の中で考えられた道という発想を重視して、現実にある建物の方を壊わしたり動かしたりする、それを当然と思うように慣らされている。これは変なことかもしれない。

 私の住む神戸は震災の後、都市計画という頭の中で考えたことが優先されて、町は大きく変わってしまった。せっかく残った建物や樹木も壊されたり切られたりして、つるつるぴかぴかの美しくはあるがまるで違う町になった。それは仕方がないことだと思っていたのだが、そこに住む当方の頭の中まで変えさせられていたとは気付かなかった。

2/ユーゴスラビア人
 ウィーンからブルガリアに向かう途中、分割された旧ユーゴスラビアの二つの国の首都を通って行くことにした。クロアチアのザグレブは豊かで美しい町で、3月にはめずらしいという雪が降って一面の銀世界になったのだが、それでもどこかエーゲ海岸の明るい雰囲気を感じてしまう。歴史的にも西欧との関係が深かったために、20世紀になってからのユーゴ体制を精算して独立しようと言うのはごく自然な発想だっただろう。実際CNNのテレビにはすばらしい観光地としてのCMが流れている。美術館での独立時の写真展がなければ、つい10年前戦争があって人が死んだことなど思い出させるものは何もなく、人は男も女も大きくさっそうと歩いていた。
 しかしクロアチア(その前にスロベニア)が独立したことは、他の地域の人たちの人種意識に大きな影響を与え、長い間入り乱れて住んでいたクロアチア人、セルビア人、アルバニア人(ムスリムが多い)はそれぞれに悲惨な目にあうことになったし、紛争は現在もまだ続いている。
 旧ユーゴ現在のセルビアモンテネグロの首都ベオグラードはドナウ川を望む交通の要所にある大都市で、歴史的に多くの民族が攻防を繰り返し丘の上にはオスマンの城跡がある。ここに多いセルビアの人たちに、旧ユーゴを懐かしむ意識とそこから独立した経済的には発展した豊かな人への憎しみが重なったことは容易に類推できる。
 そこで起こった残された領土に住む違う民族の人たちへの激しい対応は、ニュースで知っている通りだ。それは国連軍の空爆を呼び、それによって壊れた建物は10年後の今もそのまま残っていて、どこか暗い陰鬱な印象だ。駅で会った日本の若い旅行者は、ここは観光にはまだ早かったと言う、なるほどうまい言い方だと思ったが、こちらは観光に早い遅いがあるという見方に賛成はしない。むしろ未整備な現在に訪れたことは悪くなかった。伝統的な木造の建物があちこちに残っているし、現代美術館ではユーゴという連邦国家の良い面を見ることができたし、切手はユーゴという表記のままだった。

 そして何より、こちらの目からセルビア、クロアチアあるいはアルバニアの人を見分けることはできなかった。貧しそうな人や背の低い人もいたがそれは個人の差で、みなさん見事に白人だ。それはこちらを見て中国人だ中国人だと言われるのと同じで、外から見て民族はわからない。中国も韓国も日本も、同じようなものなのだ。
 ともかく愛国心というものは強くなり過ぎると一人一人の自由さをうばい周囲に悪い影響を及ぼすことになる。そういうマイナスの面を心しておかねばならない。すでに国民国家という方式はもう時代遅れのシステムということになっているのだから。失敗したとはいえ、ユーゴという国が試みた実験、特に「私はユーゴ人」という人たちがいたことは忘れたくないものだと思う。彼等はそのために余分な苦労をしたことになっただろうと思うのだが。
          *現代美術館のトイレの男女標示


3/ブルガリアの染色(Sさんのこと)
 今回の旅はこの4月で任期を終えた青年海外協力隊のSさんに会うのが、目的と言えばいえるものだった。失われたブルガリアの染色の技法を復活するという2年間の活動の成果を見せてもらうためだ。といって2年前たまたま訪れた民俗博物館で声をかけられて小1時間話をしただけ。旅で知り合った方と関係が続くのはありがたいことだが、思い出してみると彼女のことはほとんど何も知らない、そんな人を訪ねて野を越え山越えはるばる出掛けるのはやはり相当に酔狂だ。雪の峠、霧氷のトンネルをくぐって走るバスの中でそう思った。
  到着して電話すると、展覧会は開催が22日からと遅れ、それを前にした忙しい最中。だが翌日その作業場にお邪魔して作品を見せていただくことになった。案内されたのは高層公団住宅の2DKの仕事場兼住宅。玄関を入ってすぐの食卓で、展覧会のためのパネル制作中。
 染められた毛糸の束が、直染めのものとそれにミョウバンや灰などの触媒を使ったもの8種類がすでにひとまとめにして白い紙に貼ってある、それが150。触媒はすべて同じものを使っているので、比較できるし後で誰でもが制作できると言う。これに材料になった草花や茸また鉱物などの写真を張り付けている。同じ材料から染められた8種類は、どこか似ているというかハーモニーがあってまるで虹のよう、つまり150の虹がテーブルの上に溢れている。それは草木染めのイメージをはるかに越えて、鮮やかな色や濃い色もある。これだけ違いのある虹を、人間は想像だけでは作ることはできない。
 展覧会は、その写真パネルが壁に並び、中央のテーブルに大きな毛糸の束をいくつか並べると言う。同時にその方法をまとめたブルガリア語と英語の本が出版される。それらは色にあふれて美しくはあるが、染色家個人の作品を誇示するものではない。むしろ個人は背景にさがって、ブルガリアの自然の見事な造形を見せるものになっている。これは芸術家のセンスと技術師としての良心の両方がないとできない作業だ。しかもその写真パネルはエタル民俗博物館の収蔵品となって、以後誰でもが利用できるようになると、当然のことでしょうという感じで説明してくれた。
 傍にあったポートフォリオを見ると、日本では染色家として各地での個展など作品を発表していて、このような技術を広める活動の才能があるなど想像できない。なぜここに来たのか、これまでのことなどを聞く。フィンランドへの留学経験があって大きな影響を与えているようで、そのコリ地方への旅をすすめられた。
 そんな話しをしていて3時間が過ぎたが3月の終わりでもまだ寒い。全館暖房の設備はあるが、現体制になって光熱費が高騰して払えない人がいてストップしたまま、オイルヒーターをテーブルの下に置いて毛布をかけこたつのようにして暖をとった。いい機会だからと住まいも見せてもらったが、キッチンは流しと調理台だけ。レンジは吹きさらしのテラスにある、さすがに耐えられず、窓をつける改造がされている。道理で多くの住宅がそうしている訳だと教えられる。おそらく民家でかまどが居間とは別室の土間にあり、室内にはパントリーがあるという伝統が、こんなところに顔を出しているのだろうし、それは事故を防ぐ切実な方法でもあったのだろう。真冬にはシャワーのお湯が流しのところで凍ってしまってさすがに参ったとのこと。そういう厳寒の地方なのだ。
 出掛けた町の中心部にあるレストランは大勢の人が週末の食事を楽しんでいた。民族音楽の演奏のある郷土料理のお店。中央に20名ばかりのグループがいたが、やがて女性たちが立ち上がり手をつないで踊りだす男性もその輪の中に次々と入る、フォークダンスだ。もう真夜中、こちらはさすがに引き上げることにする。
 展覧会までいることはできないので、翌日、博物館内の会場だけを確認して引き上げた。でも来た甲斐があったと満足している。本はあらためて日本訳でも出したいと言うが、それが手にできればと願っている。2年間の青年海外協力隊としては理想的な活動だったように思う。彼女は既にまるで違う生活をスタートさせている。
                 *展覧会の準備作業

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