旅をしている人
田原 晋

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旅の記録, 沖縄1402

3.名護市役所 と 今帰仁村中央公民館

 

 さて前回提案したような沖縄独自のデザインを考えようとする時に、忘れてはならない建築がある。70~80年に象設計集団という当時もっとも進んだ考え方をしていた建築家たちが、沖縄で設計した、2つの建物である。

 名護市役所 と 今帰仁村中央公民館、それぞれ1981年、1975年に完成している。

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 それはちょっと変わったデザインに見えるかもしれないが、建築家個人の個性を誇示するというより、地域の風土や伝統をいかしたデザインを追求し、また使う人たちの意見や協力を得ることで完成している。

 当時沖縄でよく使われていた、コンクリートブロックをあえていちばんに目立つ化粧の材料として使い、またその積み方に工夫して、風が吹き抜けるように格子につむデザインを採用している。これも沖縄の伝統を生かしたやり方だ。間取りも、人や風が通り抜ける開放的なものになっている。色彩も、伝統のベンガラ色をアクセントとして使い、沖縄ならではのものにしている。

 さらに当時の一流の作家の協力を得て、オリジナルデザインのシーサーを作ってもらい、それを目立つように数多くかかげている。同時に子どもたちに貝殻を使ったレリーフを作ってもらい、それをコーナーの目立つ場所に使っている。それらは、建築にやさしさや親しみやすさを与えている。

 

 この地域に根差した建築は、当時大きな話題を呼び、もっとも先進的な建築として注目され、これからの公共建築のあるべき姿を示しているものと賞賛された。マスコミでも取り上げられ、雑誌では特集号が出されたりした。その時の熱狂的な賞賛を知っている当方は、これを見ることは今回の沖縄に来るイチバンに大きな目的でもあった。

 

 

 さて、そのように憧れてやって来た、名護市は、おりからの雨に冷たく沈んでいた。バス停から市役所は、すぐ目に入ってきたのだが、水のしみ込んだそれは、さらに暗かった。3日間の滞在中何度も訪れたのだが、囲む樹木にもまだ勢いがないこともあって、それは最後まで過去に写真で見た輝きを取り戻してはくれなかった。冬の雨の季節、いちばん悪い時期に訪問したのだから、仕方のないことだろう。また、革新の市政の町には、援助や投資も多くないようで、古い街並みが荒涼と続いていた。

 翌日訪れた、今帰仁村中央公民館も似たような感じだった。かって屋根を覆っていた美しい緑はなく、それを支えていた丸太のパーゴラが、むき出しのコンクリートの屋根の上で半分くずれて乗っかっていた。観光局の人が、台風に飛ばされましたと、わかったような口ぶりで言ったのが悔しかった。ほとんど使われていないのではないかと思うほど荒れていたが、中央の屋根のある土間で小学生たちがサトウキビを絞っていて、その歓声がうれしかった。

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 ただこれらの建築を見ていて、その後の社会が、当時私たちが目指した未来とは、まるで違う方向に進んだことに気付いた。

 その後建築には、セキュリティが求められ、内と外が明確に分けられるようになった。内部は空調によって温度湿度が管理される人工空間が普通になって、その調節つまり空調が常識化されている。同時にそこはWi-Fi空間というコンピュータが自在に使えることが必修になった。つまり自然は排除されるものになっている。いまやお年寄りが集まる場所でも、自然と一体になった縁側のある部屋より、閉め切られた空調のある部屋の方が喜ばれるだろう。

 そのため建物の外面は金属やガラスなどで覆われ、外部の光線や温度湿度がシャットアウトされる材料が選ばれ、必然的にピカピカと輝くものになって、人工が強調され地域性はむしろ避けられるものになった。

 

 結局のところその後、デザインは地域に関係のない世界共通のデザインが志向され、スター建築家の作品がコンペによって競われ、個人のセンスをいかしたデザインが世界各地で建てられる。あるいは流行という時代の空気だけを気にしたデザインか、使い勝手というすべての意見を聞いた個性のない平均値の建築が、ゼネコンというあらゆる問題点を解決する技術を取り込むシステムによって建てられる。

 建築はその時点での技術のレベルを示すことになる。省エネルギーは目指されてはいるが、巨大化によってほんとうにそうかは見えにくい。想定外の危機にどこまで対処しているかは、危機が訪れるまでわからない。

ただ省エネのLD照明によって、建物の色彩もまた自在に変化できるものになっている。

 

 

 そのような流れから見ると、この建物はいかにも古い、時代に取り残されたように映る。現在の状況では、あまりにセキュリティの不備だし、空調設備の設置がむつかしい。

 また空気や水がしみこむ外観は、天候によって変化して、雨の日には暗く輝かない。本来、自然にあるものはそういうものなのだが、現在の都会の建物に慣れた目には、いかにも古いと感じてしまう。あえて言えば、そう感じることが変なのだと、人間だって動物(けもの)の一種に過ぎないと、思い出させてくれる意義がある。

 

 と考えたとき、これが建てられた時期こそが、日本人という集団のすばらしさが際立った時代であったと言えるように思う。

 施政者側は、現在のことより未来を考えて施策を練る。建築家は、未来にわたってのあるべき姿を考えるのが普通であった。工事する人も、その仕事に誇りを持って熱心に取り組んでいた。失敗すれば、自分の責任で修復していたし、能力の最高を発揮することを当然としていた。子どもたちには、まだアニメやマスコミの影響はなく、描く図形は花や鳥など自然のデザインを自分の頭で考えていた。

 

 そういう稀有な時代の瞬間に、これらの建築は生まれている。それは、経済効果を第一に考える現在では、時代遅れと見えるかもしれないが、やがて、こういう発想こそがあるべきデザインと、みんなが考える時期が、また意外に早くやって来るような気がする。

 いえそれ以前に、沢山の観光客が訪れる観光名所にすることは、その気になればすぐにでもできることだろう。

 

 

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旅の記録, 沖縄1402

Okinawa 沖縄 2014.02.11.~02.17.(7日間)

那覇~平和祈念公園~宣野湾市~名護市~那覇

.旅で思ったこと

1.県ではない、州がふさわしい

 

そう言ってしまえば当然なことだけど、沖縄をゆっくり旅すると日本とはまるで違うと思ってしまう。実際に薩摩が征服するまでは別の国であったのだし、その後も日本側の都合によって、この地を内国にしたり別の国のように考え対応したりしている。そういうことをひっくるめると、日本政府はとても失礼なことをしている。こちらは旅をして突然そう思うのだけど、沖縄の人たちは何時もそう考えている。そのことを前提にしないと、沖縄を語ることはできない。対応してはならない。何をやっても、すれ違うだけだ。だから、先ずは慎重に考えることだ。

お金をそそぎ込むことも、基地を少なくすることも、今でしょうと思いつくのではなく、これまでの経緯やその結果に予想されることも考えて運ぶ方が正しい。

 

すでにこの県には、日本のどこよりもお金がそそぎ込まれているに違いない。ここの土地は、すでに日本のどこよりもコンクリートにおおわれ、それが人のこころにまで大きな影響を与えている。こちらが見た(たぶんごく一部の)例をあげると、嘉手納キャンプあたりから那覇空港まで続く、広い道、空港の手前では海底トンネルまで掘られている。その結果、人のこころもまた気付かないうちに変化してしまっている。車は歩く人のことなどほとんど考えないかのように、猛スピードで走っているし、黄信号では駆け抜けることが優先される。那覇の街ですら、信号は歩く人への配慮より、運転者の都合を優先しているように、旅行者には見えてしまう。

という場所にすでになっているのだから、援助をすると言っても何をするのか、何をすればここに住んでいる人たちのためになるのか、考えることが求められている。相手に尋ねればいい、というのもむつかしい。尋ねる方によって、答えはまるで違うだろうから。ここは、お互いにそのことから話し合うことが求められている。(と言って、もうそれすら理解いただけるか、心もとない感じがしてしまう)

 

だから最初に、ここは他の県とはまるで違う場所と思うことが求められる。つまり、まずここはたくさんある日本の平均的な県ではない、違う地域なのだ。ここはその呼称の変更からスタートすべきではないだろうか。県ではないのだ、もっと違う呼称はないか、といってもちろん都ではない、府でも道でも違う。

となれば、別格がもっともふさわしいのが州だろう。沖縄州、そう呼んでみたらいかがだろう。呼び方を変えることで、ここは日本の中でまる違う場所であることがはっきりする。日本政府もそう考えていることが、明確に表明される。

で、その上で、この場所をどうするのがふさわしいが、お互いに考えればいい。今回の旅は、最初にそう気付かせてくれた。

 

2.お金の使い方

 

政府がお金を出すとなると、どうしてもコンクリートへの投資となる。被災地への援助、景気回復のための投資となると、それしか思い浮かばないかのようだ。お金を使うことによって、何人がその分配を受けるのか、どれだけの需要が生まれるのか、常にそういう計算がなされ、結果として土木需要が選ばれる。その工事によって直接に生み出される需要がもっとも効果的ということになる。

いえそれ以上に、受け皿がそれでできていて、そこにお金をそそぎ込み続けなければ、不満や不平が出る仕組みになってしまっている。つまり、その工事が終わった後の効果以上に、その工事をするそのことが重要視される。結果として、出来上がった後には、不要のものというか手に余るものになってしまう。

そういう例を、私たちはこの国で嫌と言うほど見せられてきた。でも、それ以外の方法を思いつかないかのように、沖縄はもちろん東北でも、いえこの春以降全国で繰り返されようとしている。

 

そこで、それとは違う方法を沖縄という場所で考えてみた。

 

1)デザインで、見え方を変えよう。

沖縄に到着して、まずモノレールに乗った。これこそが沖縄援助のシンボル的存在だと思うが、せっかくそこまでやったのなら、もうひと押し、そのデザインや色にもっと配慮すればいいのにと思った。外装のことだけではない。インテリア(車内の設備、というか観光客の大きなカバンへの配慮がまるでない)、車内の表示(路線紹介、次の駅の表示のやり方、ドアに手をひこまれないようにという注意表示まで)、さらに言えば、そこにかかげられるポスターについてもある程度の規制もまた必要ではないか、と思ったりした。

そこを美しくというより、使いやすく配慮のあるセンスのいいものにすれば、飛行機でやって来た観光客に、その気温や風だけでなく、まるで違う土地に来たのだという高揚感はぐんと高くなると思う。

 

当然、そこから見える風景についてもせっかくだから配慮が欲しくなる。ほんとうは建物の形や色にまで及んで欲しいのだが、まずはそこから見える看板や建物の名前表示についてある種の規制が欲しい。いえ現在の日本の各都市に比べて悪いというのではない、むしろこれからそういう混乱が起こってくるに違いないから今のうちに、用意しておきたいと考えたに過ぎない。これは、京都市がすでにやっていることだから、教えを乞い、それを参考にすればいい。

 

街に出れば、通りの表示、施設やホテルやお店の案内板が必要になる。そのデザインの親切な表示と、設置の場所。さらに道路標示、標識。できれば日本の標準を横目に見ながら独自のデザインができれば、それもまた特別な場所と言うことを感じさせてくれる。これは、那覇だけではなく、各市町村にまで及んで欲しいものだ。そこではデザインがどうという以前に、そういうものが存在することが、まず求められる。

 

なによりバス旅行をした当方には、バスターミナルの表示が気になった。まるで配慮されていない、モノレールの駅を降りたところから表示が必要だ。すべて、よく利用している方だけを相手にしているように思えてならなかった。

バスの車体デザイン・カラー、それ以上に「行先表示」のデザインなど、これを一新すれば、全島に及ぶことになる。バス停の表示(時刻表掲示)まで、考えて欲しいものだ。

 

またこの採用は、委員会の合議では推進できない。九州に水戸岡さんというデザイナーがいらっしゃるように、沖縄独自の方をぜひ選んで欲しいものだ。将来は、やはり沖縄に住んでいただける、そして世界的なデザイナーであることが夢だろう。

 

たぶん、これを採用しても沖縄の方たちは「?」と首をかしげられるに違いない。何の不便も感じていない方がほとんどだろうし、そんなムダなことにお金を使ってと思う方もいるだろう。むしろ、これがいちばんうれしいのは旅行者の皆さんかもしれない。それもひとりか二人でやって来る外国人を含む個人の旅行者だ。団体やツアーで大挙訪れて観光バスに乗り込む方ではない。だから旅行会社の方も、そんなものは無駄だと言われるかもしれない。この国の観光への投資は、すでに団体旅行を標準と考える旅行会社の意見によって、特異なものになってしまっている。

 

2)個人の旅行者としての勝手なお願い・バス路線と自転車

個人の旅行者側として、ちょっと勝手なことを言えば、「観光」の視点から見直して欲しいことを少しばかり~。

・バス路線

バスで一緒になったフランスからの女性は、祈念公園から斎場御嶽(世界遺産)に行こうとしたらバスがないので、那覇まで帰らなくてはならないとボヤいていた。こちらは本島を一周しようとしたら、北部の東側の路線がない。レンタカーなら簡単にできることだが、それでは那覇で借りることになって、バスの利用はあきらめることになる。本数は少なくてもいいから、路線が欲しいものだ。

・自転車旅行の提案

考えてみると、本島の大きさは、自転車で走るのに、最適なように思う。瀬戸内のしまなみ海道に、サイクリングの設備があったが、それと同じような設備はできないだろうか。専用レーンの設置、と貸自転車の用意だ。それは、とても楽しい、これまでにない旅を提案してくれると思う。

と同時に、沖縄の方にも、その楽しさを教えることにならないだろうか。レンタカーよりもはるかに楽しいし、何より身体をスリムにするのに役立つのではないだろうか。

 

以上、馬鹿げたことを言っているように聞こえるかもしれない。でも、ちょっと立ち止まって考えると、これこそが沖縄独自の美意識というか文化を感じさせる、いえそれを育てることにも役に立つものになる。

那覇の国際通りを歩いていて、沖縄の伝統文化が(観光客が欲しがるのは、その程度のものだと?)安易に変更されていることを感じた。売れるものが求められ、本来あった伝統や文化とは違うものだけが、あまりに強調されている。B級は必要だが、それはあくまでA級が存在してのことだろう。

米軍人が基地という別世界にいるように、観光客もリゾート地やゴルフ場や国際通りというキャンプに隔離して対応すればいい、というは、どこか悲しい。

 

 

3)沖縄の伝統文化を大切にしよう

 

沖縄から沢山の歌手やグループが出たことは、もう誰でもが知っているし、沖縄という地があったことが、日本のポップス界を豊かにした。当然のことだが沖縄に、どこにもない音楽(民謡や舞踏)の歴史があったことが、土台になっている。それがあったから、独自の現代に流行する歌謡が生まれたと言える。

では沖縄は、現在その独自の演芸の伝統をどれだけ大切にし、また将来のために育てているのだろう。民謡の歌手や演奏者の方が、その技芸を職業として選び取って豊かに生きていける人生になっているだろうか。若い方がそれらを魅力的に思って、学ぶための施設が備わっているだろうか。

 

シンガポールに「シンガポール チャイニーズ シンフォニーオーケストラ」というのがあって、100名近い団員が、植物園の野外劇場で沢山の観客を前に見事な演奏をしていた。インドネシアのバリ島では、ケチャの舞踏や音楽のための学校があって、子どもたちが熱心に勉強している。伝統を維持し発展させようとすれば、そういう施設や、態勢が欠かせない。

 

これは音楽だけにとどまらない。織物染色、陶芸、木工、建築など芸術全体、生活の全般に及ぶことになる。首里に芸術大学ができている。でもそういう通常の教育体系を越えるものが、伝統芸能には本当は必要なのだ。現在の一流の名人たちが、それを次代に継いでいく体制が整っているか。それを各分野の方たちが要望していただくことが求められる。

芸術は、経済というシステムとはもともと関係ない、金食い虫なのだ。それを理解した上での対応が求められる。

 

おもろもちに新設された「県立博物館・美術館」を見ていて、やっとできたのだと、うれしく思うとともに、こんなものではないだろう。もっといろいろあるだろう。もっともっといきいきした現在を反映したものにと思った。厳選して美しく見せることも大切だが、こんなものもあるのだ、これでもかと量を見せて欲しい。汚れたもの、崩れたもの、壊されたもの、などなど~。

織物染色、陶芸、木工、建築などそれぞれの分野がどう歩んで来たか、どのようなものがあったか、それがどう破壊されたか、また生まれつつあるのか、そういうことに気付かせ考えさせてくれるものになって欲しい。

また現在も崩壊し散逸しつつあるものを、どう蒐集、修復保存していくか、その現状や問題点を、みんなで考えるものにもなって欲しい。

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4)植物園、民家園が欲しい  ←これは間違い「東南植物園」1968年開園、が沖縄市にある

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こちらの好みを言うようで、ちょっと申し訳ないが、せっかく見事な水族館があるのだから、それに負けない植物園をぜひ造って欲しい。とはいえ植物園は、自然環境・天候の影響をもろに受けるから、その維持が大変だ。だがそれは、沖縄の自然を直接に体験できる場所になるのだから、ぜひ用意していただきたい。それも広ければ広いほど良い。その場所は、日本のどこにもない特別な環境であることを、どんな施設よりもはっきりと示すことができる。

できれば、その一部に民家を移築した民家園を用意していただくと、これもまた楽しい。民家園は、北欧や中欧、バルト3国などが、国の威信をかけて運営維持しているから、それを学べば、その価値というか意義がはっきりする。休日のその場は、民族衣装や舞踏さらには料理などの開催の場になっていて、民族のルーツや文化を体験する場になっている。

沖縄にとってそれは、首里城以上に必要な場ではないかと思えるのだが。

 

*組原先生より指摘。本島の中部に「東南植物楽園」という立派な植物園があるとのこと。知らないとはいえ、失礼しました。おかげで、もう一度訪ねる理由ができたと、うれしく思っています。

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以上、思ったことを、失礼を顧みずに並べてみたが、この土地・沖縄が、いかに日本のどことも違う場所であるか、それが見えるようにして欲しいと願っている。

これまでは、どちらかと言えば、日本と同じようになることが目標で、そのために「お金」が使われていたように思う。特に、米軍施設の返還場所の使われ方を見ると、それはいい方向に向いていないのではないか、そのような気がする。

 

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沖縄 1402・旅日記

2014年3月19日

旅の記録, 沖縄1402

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Okinawa 沖縄 2014.02.11.~02.17.(7日間)

那覇~平和祈念公園~宣野湾市~名護市~那覇

.旅日記

1・2月10日(月) 神戸~那覇 

 

 

    三宮~空港モノレール(30分足らず)

     神戸  SKY591  08:45  ~ 那覇 11:00   / 2H15        

 家を7:00に出発して、空港に8:00に到着、ネット予約のチケットを発行してもらって搭乗準備完了。神戸空港はやはり近い。スカイマーク便、ほぼ満席で、無事に飛んで、定刻到着。

予報通りの曇天、これから1週間どうやらお天気には恵まれないようだ。でも20℃近くで暖かい。

 まず、観光案内所iで地方のホテルを尋ねる。名護市内には沢山あるが、宜野湾市はやはりわからない。海岸のリゾートホテルしかないようで、ともかく2軒に直接電話して聞くことにする。なければ名護市まで行ったらどうかという提案。それぞれの町の観光案内や地図をもらう。やはり言葉が通じるのはうれしい。これが英語ならもっと時間がかかっただろうと思う。

 次に帰りの便のために全日空のカウンターへ。予約は3日前からと電話番号を教えてくれ、当日このカウンターでシニア割引を尋ね、もしあれば予約をキャンセルすればいいと、裏ワザを親切に教えてくれた。なんと12,000円で乗れる可能性があるのだ。混み具合から、朝の便の方が空いていることを知る。

 モノレールに乗ってホテルへ。チェックインは2時からとのことで、荷物を預け町へ出る。残念ながら雨交じり。大通りに面したカフェレストランで遅い昼食、ちょっと考えてシチューに、結局ここには何度も来た。周囲のホテルを含め、帰りの土日は満席。なんとプロ野球のキャンプがあって、沖縄は大変に混んでいるとのこと、そんな事情をまるで知らなかった。

 18:00ブラジルで一緒になった野里さんに会い、夕食へ(組原先生は上京中、土曜に会うことに)。国際通りを、説明してもらいつつ県庁まで歩く。ついでに平和市場、発生時秘話などをうかがう。女性運動の原点があり、戦争がまだ生きている。食事はお菓子御殿(有名店)の食堂でお膳、民謡の演奏があり、台湾の団体がいた。知っている歌だが、異国というか、日本のどことも違うと、あらためて思う。ドトールでコーヒーを飲んで別れる。それにしても、親切がほんとうにありがたい。帰室22:00、就寝23:00。

                            ベストウエスタン那覇イン 泊

 

2・2月11日(火)祝日 

 7:30起床、日の出が遅い。9:30出発、バスターミナル、窓口の空くのを待って「1日乗車券」2,000円を購入。バスで糸満ターミナルへ、南部地域をまわるバスに乗り換え。売店なく弁当が買えず、心配。客はフランス中年女性(環境調査の仕事で来日)と二人。平和祈念公園から那覇に帰って鍾乳洞に行くと言う。こちらは、手前のひめゆりの塔で下車。沢山の団体客と一緒に、語り部さんの話を聞く。やはり泣いてしまう。もう80代だろうが、戦争で亡くなった友たちと一緒に生きている。それ以外の人生などなかったのだ。「出て来なさい」米軍の日本語の呼びかけがあったが、出ることなど思いもしなかったと言う。言われると、その心情がこちらにはわかる。ともかく、そういう方がいらっしゃる世界なのだ、ここは。中庭に赤い花が咲いていて、そこが明るいのを、写真を撮る。

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 外に出て、団体客の食堂に入る気はなく、パンを揚げていた(砂糖天ぷら・昔のドーナツの味)ので、そのアツアツをもらう。次のバスまで1時間近くあるので、歩くことにする。なんと雨が上がり、陽が射してきた。海が輝いている。緑も美しい。バスよりも早く到着。砂糖天ぷらを食べる。

 平和祈念公園は広大。テレビで知っている、礎・いしじのまわりを歩く。団体客が多い、修学旅行や外国の団体も多い。中国語に韓国語、英語。アメリカの団体は、アメリカ人のいしじを眺めていた。1時間過ごし、さらに1時間バスを待って、帰る。若いひとり旅の男女がいた。 16:30旭橋バスターミナルに帰る。

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 そのまま市役所、県庁。そして国際通り、スタバで休む。近くに観光案内所があったので、そこで尋ね、あらためて土日のホテルを探す。なんとか探すことができた。ただし普天間のホテルは、どちらも飛行場からはずいぶん離れていて、あきらめる。夕食は、昨日と同じカフェレストラン、もう顔をおぼえてくれた。ごく普通だが、ノートがゆっくり取れるのがいい。

                                ベストウエスタン那覇イン 2泊    

 

3・2月 12日(水) 

 9:00出発、旭町バスターミナルから高速バス、4人分の席をつぶした荷物置き場があるのがうれしい。外国仕様だ(外国では当然のことだが、日本では新幹線ですらお目にかからない)。わずか30分で、宜野湾市の中城(なかぐすく)到着10:30。細い田舎道、やって来た軽に道を聞くと、乗れと言ってくださる。若い女性、国道に出たところで下りる。こういうのが外国ひとり旅の大特典だと、感謝感激する。

地図でチェックしてしばらく歩くと「佐喜真美術館」(野里さんが教えてくれた)だ。個人のコレクション、ヒロシマの丸木夫妻が沖縄を描いた絵がある。なんと都立高校の修学旅行一行のバスが何台も停まっている。彼らを前に語り部さんが話している、小1時間も皆さん熱心に聞いている。そのことに感心。屋上に展望台が後付され、普天間飛行場が見える。目の前にフェンス、でもその先は緑で滑走路は見えない。もう機は飛ばなかった。コンクリート打ち放しの、とても気持ちのいい、そして建築時の感性もそのまま保存されている美術館だった。

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たまたま玄関先に到着した時に、オスプレイが飛んだ。中から上品な女性が出て来て「今日はケネディが来るから飛ばないと思ったけれど、飛んだ。ほらヘリコプター仕様、あれで市街地は飛ばないことになっているのに、まったく守られてない」とおっしゃる。そのイメージと違う強い語り口に、こちらは言葉がない。

せっかく来たのだからと、結い(衣)の絵はがきを求めて退出した。昼食をと思って歩く。マックの看板が見えたので近づくと2.5km先とあるのであきらめてスタンドで聞くと、美術館を出てすぐにあったマンガ喫茶を教えてくれた。このあたりにお勤めの皆さんの唯一の食堂らしい。定食は3種類、ユシトーフ定食というのを頼むと大きなどんぶりにいっぱいのお味噌汁、なかにいっぱいの豆腐が入っていて感激的においしかった。コーヒー付きで800円。

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 タクシーをひらって、中村家住宅(1972 重文)へ。石垣に囲まれた赤瓦の住宅(約280年前)、士族屋敷の形式に農家の機能設備が加わる。その美しいたたずまいに感激。座敷の表の露地に、根元のふくらんだ木を柱として立て、広い軒先を確保するのが特長だ。おそらく激しい雨や強い日差しを避けるのが狙いだろう。この形式は、那覇でも名護にもあった。それにしても、戦火がとどかなかった地域には、このような建物も住んでいた人も残るのだ。出口の場所にあるこれも快適な民家(当主はここに住んでおられる)で、お茶をいただき絵はがきと切手を求める。待ってもらっていたタクシーで、高速の喜捨場バス停へ13:00、1,700円。運転手さんによれば、普天間にもビジネスホテルはあるようだ。また帰りに飛行場の見える展望台をすすめてくれた。やはり現地の情報がイチバンだ。

 名護市到着、市庁舎前14:30。結構ひどい雨、ホテルを探さねばと中心部へ向かう。ホテルがあったので、雨宿りを兼ねて中へ。フロントのお姉さんに、空きを聞いてみる。みすぼらしさが同情を呼んだのか、とても親切に対応してくれ、あちこち電話して探して、やっと見つかった。ツインのシングルユース、ここもプロ野球のキャンプがあるのだ。少し小降りになったので、外へ。あらためて市役所にも行って見る。1981年の象設計集団の作品で、ずいぶん話題になった建築だ。雨で濡れたそれは、暗くすさんだ感じまでする。また来ることにして引き上げる。中心部の十字路にあるケーキ屋さんのカフェで、ノート整理(以後毎日行った)。明日のバスの時間をチェックする。

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 夕食は沖縄そばの店(ホテルの窓から見える)に、つい入ってしまう失敗。当たり前のことだが、関西より約1時間日の入りが遅い。古い造りのツインの部屋は、ゆったりしてうれしい。持参のコーヒーを淹れるが、日本茶のティーパックを持参すべきだった(ブラジルで、クコ茶を飲んでいた人に進呈したのを思い出した)。

                       名護市 ホテル山田荘、朝食付き5,890円

 

4・2月 13日(木) 

 

 7:30起床、日の出が遅く寝坊する。朝食、ビジネス客つまり沖縄の方の平均的朝食だろう、食後はお茶でなくコーヒーのようだ。  8:21ほぼ定刻にバス出発。今日も雨まじり、2月は雨の季節なのだ。

 

 今帰仁村(なきじん)役場前で下車、中央公民館(1975象設計)はすぐわかった。ただし当初あった緑の屋根はなく、むき出しのコンクリートに緑を這わすための木材がくずれたようにあるだけだ。でも赤い柱は存在感を示していて、その足元には住民の皆さんが参加した貝殻のレリーフが一部つぶれてはいるが残っている。中央の屋根のある広間で、小学生の一団が歓声をあげながらサトウキビをしぼっていた。他はあまり使われていないようだ。傍にある観光協会で聞くと、台風で緑の屋根は無理でしたとのこと、人為に偏したことだったのだろうか。今も建築科の学生さんが時々訪ねて来るようだ、青い空の下で見ればまるで違う印象だろう。

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 1時間後の次のバス9:47に、雨はますますひどくなる。他に乗客はなく運転手さんと話をする。やはり青い海を見せたいようだ。海の中を行く橋2000mがあるとのこと。また右手は天然の中海、台風ではここに避難して、タンカーなどでいっぱいになるとのこと。そして戦争時の話になった~。

 間もなく10:15、芝生で修景された広い海洋博公園に到着。乗用車やバスが次々に入るなか、傘をさして歩く。美ら水族館はその中の施設。大変な人にびっくり、外国語も聞こえてくる。外とは別世界だ。

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 老人割引はなく1800円。最初に熱帯魚の泳ぐサンゴ礁の海が、出迎えてくれる。以後4階を下りながらじんべいざめのいる大水槽を眺める。見ている人がシルエットになって、水槽の大きさにあらためて驚く。国が援助していると、やはり違うなと思う。相変わらずの雨、公園を歩くことはできず、カフェでピラフとコーヒー。バス停でひとり30分待って13:15出発。

 

内陸部を行く路線、学校や商店スーパーなどが見えて、楽しかった。14:00名護到着、何時ものケーキ屋さんでノート整理。雨の中、町を歩いてみる。博物館、以前はここが市役所だったとのこと、玄関に大きなブーゲンビリア?が伸びていて3階まで達している。あ、これが建物に木を這わすことを発想させたのかもしれないと思う。木は自分では台風に耐える態勢を取りながら伸びていく。でも人がそれをやろうとすると嫌がるのかもしれないと、思う。近くの交差点には、大きなガジュマルの木もあった。雨ばかりの中だが、緑が暗い町を一気に明るいイメージにしてくれた。サロンで市民作品の展示、中に本島一周の記録、建物調査があって感心。調査の伊平屋島にはまだ赤瓦の民家が多数残っている、行ってみたい。絵や工作だけでなく、研究をする人がいらっしゃるのが、うれしい。夕食は、市場2階のさくら食堂で、定食800円。

部屋で洗たく、湿気がひどい中10:30就寝。夜中に目覚め窓を開き、湿気を出す~。

・今帰仁村中央公民館(1975象設計) ・海洋博公園  美ら水族館

                                ホテル山田荘 2泊

5・2月 14日(金)

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 8:00起床、朝食。9:00バス(那覇行きだ、何時間かかるのだろう) 9:30辺野古到着。何もない、ともかく海に向かって歩く、展望台?から堤防の遊歩道。砂浜に出たところにテント村と書いたテントひとつ。中に男女数人、一人がこちらに説明してくれる。20年の闘争。埋め立てがいかに横暴か、熱心に話してくれる。彼が熱を入れるほど、こちらは冷静になってしまう。そんなに長くやって大変ですね、どうやって食べているのですか?ま、なんとか~と言いながらぶ然とした。大変ですね。で、海岸に行くことにする。海に伸びる突堤があり、その向こうにフェンス、そこからが基地で、岬はそのはるか先。ともかく、この海岸一帯が滑走路になるのは確かなようだ。美しい海、できれば残したいとは誰でも思うことだ。若者が一人突堤を歩いて来た、どこからですか?横浜です。3日間の休日、レンタカーで本島を一周するとのこと。こちらと同じような人は、結構いるものだ。こちらの地図の入ったチラシを、興味深そうに見るので、あそこのテントでもらったと教える。帰りにテントでつかまっていた。海は何もないが、時に陽が射すと青く美しい。

 

村へと歩き出すが、通りに家がぽつんぽつんとあるだけ、公園の東屋で休んでいると、名古屋からという同年輩のひとり旅、海岸の方へ向かう。バス停近くの食堂が空いていたので、お茶を所望する。コーヒーはインスタントとのことで日本茶、しばらく話をする。ではと腰をうかし、いくらと尋ねると100円と言う、それがうれしかった。バス停で名古屋からの男性にまた会って、それぞれ反対に向かうバス停で、道をはさんで大声で話をする。83才だとのこと。こちらのバスが先に来て別れる。

 

名護帰着12:00、博物館と広場の樹木を撮る。12:30さくら食堂、満員。昨日博物館のサロンで教えてもらった市街を歩く。津嘉山酒造、崩れかかった民家を使っている。客間部分の作りは中村家と同じ、露地に柱を立てた縁側。裏に別棟を民家風で新築していたが、古いのが崩れるのは惜しい。そのまま周囲を歩く。古い民家も残っていて、時が止まったようだ。1時間ほど歩き回る。革新市政だと、お金が落ちないのだろうか?

 

 ホテルに帰って、帰りの便の予約の電話を入れるが、話し中ばかり。フロントでそういうと、東京の雪のためではと言う。で、パソコンで予約、これはすぐにできた。また市役所に行ってみる、結局、毎日行ったことになる。夕食は地中海料理レストラン、鮮魚のソティ2,100円。日本語が通じるのが不思議な感じがした。出る頃にもう一組の客、こういう店はなんとか生き残って欲しいものだ。

 辺野古基地  名護市庁舎(1981象設計) 

                                 ホテル山田荘 3泊                

6・2月 15日(土) 高速バス・名護市~那覇 

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7:30起床、朝食 8:30出発。8:55高速バス・市役所前、当然だが結構な人。琉大前で下車9:57。タクシーで嘉数(タカツ)高台公園 、普天間飛行場を望む展望台で訪問した人がニュースになる場所。中国人を含む観光客が次々にやってくる。休日の子どもたちが遊んでいる。国道に帰って、珈琲豆店の店先でコーヒーをもらう160円。バスが数台通っていく、すぐ来るだろうとバス停に行くが30分待たされた。乗車して約1時間12:50那覇到着。 ホテルに荷物を預け、昼食・国際通りのレストランへ(憶えていてくれた)

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16:00ホテルで組原先生、野里さん、それにブラジルからの留学生Souzaさんに会う。しばらく話をして、先生の運転で沖縄最大の嘉手納基地を見に行く。高速を100㎞以上で飛ばして、こちらが苦労して訪れた普天間よりもはるか遠く場所へ。高速を下りて金網沿いにすすみ、飛行場を望む道の駅・カテナの屋上からそれを見る。もうすっかり暗くなっていたが、その大きさはわかる(普天間を訪れた時、ここは小さいと何度も言われたことが、やっと理解できた)。そこで食事(トーフ定食)をご馳走になり、さらに基地の西側沿いを南下、4分3周した。同時に、その道の広さ、車の量とスピード、そして周囲の商店の多さ大きさに、あらためて、来る前に予想していた沖縄があった。それは、これでもかとお金を投じコンクリートで固められた都市、それが那覇まで(後で知ったが、空港まで)通じていた。車は高速で走り、黄信号でも突っ走るなど人の意識もまた、無意識のうちに変化させられている。

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この2時間の小旅行は、こちらが見た沖縄とは違う沖縄があることを教えてくれた。時速100㎞で移動している人たちの感性もまた知ることができた。それは、とてもありがたかった。 ツアーで訪れる観光客の皆さんも、こちらの沖縄を見ているのだろう。それは日本の先進の大都市と変わらない。 

さらに先生の家に立ち寄って、先生の著作を3冊もいただいて(ベルギーとオランダの図書館研究の本、それに旅のエッセイ)帰る。ずいぶん遅くまで、ほんとうにどう感謝すればいいのだろう。                                   

那覇 山市ホテル 1泊

7・2月 16日(日)

 7;30起床、朝食、9:30荷物を預けて出発、ホテルの窓下に広がる緑、公園かと出かけてみるとお墓だった。1日、那覇市内を見ることができる。まず首里城へ、皆さんの意見を聞くうちにここへ行かないのは申し訳ないと思った。ゆっくりと見る。25年前に富子と来たときは守礼門しかなかったのだ。図面写真が残されていた結果らしいが、よくぞまぁ再現したものだ、まだ続行中。そして観光の目玉になっている。

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 すぐ前にある原宏司設計の城西小学校へ、グランドでサッカーなどやっていて、そこに入ることができた。当時の設計思想のままに使われているようで、うれしかった。その後の教育を先取りしたところがあったのだろう。玄関前に彼の設計に違いないと思われる住宅もあった。駅まで歩くうち、いい建築は周囲に影響を及ぼすのだと思う(名護市でもそうだった)。近くの公民館も快適そうだった。

 モノレールで「おもろまち」へ、名前がなんともうれしい(当方の俳号が、面呂なのだ)。由来は沖縄最古の古謡・おもろそうし、から取ったそうだ。おもろ双紙が沖縄のものとは知らなかった。米軍接収の場所が1973年返還され・那覇新都心として開発したのだそうだ。とはいえショッピングセンターが中心の町、道は広い自動車道路で歩くようには作られていない。すぐ近くの県立博物館・美術館へ行く。大変にがんばっていらっしゃるが、いかにも現在で、設計に個人の顔が見えない。織物や民具食器がもっとあると思ったのだが、これだけしかないのだろうか、ちょっと残念。屋外に民家と高倉が移築してあった。

遅い昼食を、野里さんの教えてくれた市場の2階で取る。なるほど南国だとうれしかった。ベトナムを思い出したのだ。ホテルを移動、ツインシングルユース(そうだ、部屋がそれしかなかったのだと思い出す)、快適。お土産を買いに出る。三越(ちんすこう)、お菓子天国(野里さんおすすめの・紅イモタルト)、民芸店(欲しいものは高い)で少しだけ。

夕食は、何度も行ったレストラン、気が付くとこちらと同じような老人旅行者(ご夫婦など)が多い。若者向けに作った店だろうが、旅行者が3食沖縄料理はかなわんと訪れるのではないかと思う。ボーイさんと、そんな話をする。23:00就寝。

                             那覇 ホテル山之内 泊

             

8・2月 17日(月)

 7:30起床、朝食がついていないので、ドトールでトーストと紅茶。ノートと荷物の整理。10:00組原先生3人がロビーに来られしばらく話をして町へ。那覇市内を散策することに。壺屋地区という焼き物やさんの町、ここが最初でそれが読谷村へ移ったのだそうだ。崩れた立て窯があったり、古い民家、緑におおわれた塀などがある。植物の元気がいい、さすが南の国だ。観光客も多いから、ちょっとしたコースになっている。こちらは知らなかったから、ありがたかった。那覇の印象が大きく変わったように思ったりする。

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 車で空港まで送っていただいて、お別れする。ほんとうにありがたいことだった。それにしても、途中の海底トンネルには驚いた、よくぞまぁ造ったものだ。お金があると、人はこういうことを発想する見本?

 空港では、無事「シニア割引」12,000円を求めることができた。昼食は市場で揚げ立てを買った、魚と野菜の天ぷら、ドーナッツをベンチで食べる、おいしかった。

トイレで下着など冬装備に着替える。最後尾席、3人席をひとり占拠して帰る。離陸30分遅れ、神戸空港到着、やはり寒い。着替えていたのは、正解だった。関東地方は大変な雪のようだ。

                     那覇 14:30 CI3726 / 2H30~神戸16:20

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沖縄・1402 旅程

2014年3月11日

旅の記録, 沖縄1402

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Okinawa 沖縄 2014.02.11.~02.17.(7日間)

那覇~平和祈念公園~宣野湾市~名護市~那覇

.旅程

1・2月10日(月) 神戸~那覇        

  三宮~空港 7:23~8:15

神戸  SKY591  08:45  ~ 那覇 11:00   / 2H15   skymark  11,900yen 

ベストウエスタン那覇イン 1泊(モノレール安里駅前) 

2・2月11日(火) 

  南戦跡・ひめゆりの塔、平和祈念公園

                   ベストウエスタン那覇イン 2泊     13,900yen(6,950)

3・2月 12日(水) 

   中村家住宅(1972 重文)

   普天間飛行場     

・名護市庁舎(1981象設計)     

名護市 1泊

4・2月 13日(木) 

       ・今帰仁村中央公民館(1975象設計)

   ・海洋博公園  美ら水族館

名護市 2泊

 

5・2月 14日(金)

   ・辺野古 基地

   ・名護市内散策

             名護市 3泊    ホテル山田壮 17,670yen(5,890)

                 

6・2月 15日(土) 名護市~那覇

   ・嘉数(タカツ)高台公園

      ・嘉手納基地     那覇 1泊     ホテル山市 3,900yen

 

7・2月 16日(日)  

   ・首里城・おもろまち 那覇 2泊           ホテル山之内7,350yen

 

8・2月 17日(月) 

   ・那覇・壺屋地域散策

   那覇 17:20 CI158 / 2H30~神戸20:50     シニア割引・12,000yen

 

歩数計) 0210/17,270.  0211/17,637.  0212/14,174.  0213/9,412.  0214/14,102.  0215/8,706.

0216/19,550.  0217/(沖縄 8,223) 14,214.    

 

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旅の記録, 田原晋のひとり旅, 沖縄1402

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Okinawa 沖縄(海外ひとり旅)

2014.02.11.~02.17.(7日間)

那覇~平和祈念公園~宣野湾市~名護市~那覇

 

沖縄、海外ひとり旅

 

 沖縄に1週間行って来ました。これから、その旅の毎日をまとめますが、最初にこれはぜひご提案したいと思ったことがあります。

 

 世界を旅していると沢山のツアーの方に会います。こちらのひとり旅を、羨ましそうになさる方がいらっしゃるのですが、では次回はゼヒとおすすめすると、いや言葉ができないとか危ないでしょうとかおっしゃる。そこで思い付いたのですが、沖縄に「海外ひとり旅」のように行ってみられたらいかがでしょう。それが、うまくいったら、次は台湾、次はフィリッピンのルソン島と(私の足取りの逆になりますが)トライする気になられるのではないか、そう強く思いました。

 そこで、こちらのそのつもりで旅をまとめることにします。何より、沖縄は海外だと思うと、その通りなのです。日本とはまるで違うところが、本当に沢山あります。いえ、ここを日本の中のひとつの県だと思って出かけることは、とても失礼なことではないか、そんな気がしてきます。レストランでひとり食事をして、日本語が通じることがとても不思議な感じがしました。

 そこで、こちらの旅がそうであったのですが、普通に「沖縄旅行」と思われていることとは、違う旅の仕方をぜひトライしてみてください。そのために、次のことは必修になります。

  1. 期間は、最低で1週間としてください。一般の沖縄の旅は3日から5日ですが、海外旅行なのですからそれは覚悟してください。もっとも定年後の方なら、その時間は簡単に確保できると思います。
  2. ホテルの予約は到着の日とせいぜいその翌日までにして、その先は現地調達というか訪ねる町に着いてから探すことにします。(最近はネットの普及で、ヨーロッパなどでは事前予約が当然になり、楽しさが半減しているのですが、幸いなことに沖縄ではまだネットの普及はそんなに進んでいません)
  3. 移動は、公共のバスを使います。レンタカーはいろんな意味でおすすめしません。意外に小さな島ですから、車だと早く着き過ぎてしまうのがひとつと、運転手さんや乗客の方など現地の方と話し合えるチャンスこそが、海外旅行の醍醐味なのですから、それを楽しみましょう。1時間に1本あればいい方という、少なさも楽しいものです。*幸いなことに、公共のバスの詳しい路線案内が発行されていて、無料で(切手代の負担だけで)手に入れることができます(2014年2月時点)。
4.それからリゾート地での滞在、ゴルフや買い物など一般の沖縄の旅でイメージされている旅行のスタイルとも違うものにします。海外旅行ですから、世界遺産などの名所旧跡や文化を訪ねる旅にいたしましょう。

  *ありがたいことに、そうすればとても安価になります。ビジネスホテル泊まり歩きということになりますが、それをまたツインのシングルユースなど少し贅沢に使うこともできます。

 ということで、こちらの行って来た沖縄の旅を、まずはお楽しみください。

 

 

 

 

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