沖縄で思ったこと・3.名護市役所 と 今帰仁村中央公民館
2014年4月1日
3.名護市役所 と 今帰仁村中央公民館
さて前回提案したような沖縄独自のデザインを考えようとする時に、忘れてはならない建築がある。70~80年に象設計集団という当時もっとも進んだ考え方をしていた建築家たちが、沖縄で設計した、2つの建物である。
名護市役所 と 今帰仁村中央公民館、それぞれ1981年、1975年に完成している。
それはちょっと変わったデザインに見えるかもしれないが、建築家個人の個性を誇示するというより、地域の風土や伝統をいかしたデザインを追求し、また使う人たちの意見や協力を得ることで完成している。
当時沖縄でよく使われていた、コンクリートブロックをあえていちばんに目立つ化粧の材料として使い、またその積み方に工夫して、風が吹き抜けるように格子につむデザインを採用している。これも沖縄の伝統を生かしたやり方だ。間取りも、人や風が通り抜ける開放的なものになっている。色彩も、伝統のベンガラ色をアクセントとして使い、沖縄ならではのものにしている。
さらに当時の一流の作家の協力を得て、オリジナルデザインのシーサーを作ってもらい、それを目立つように数多くかかげている。同時に子どもたちに貝殻を使ったレリーフを作ってもらい、それをコーナーの目立つ場所に使っている。それらは、建築にやさしさや親しみやすさを与えている。
この地域に根差した建築は、当時大きな話題を呼び、もっとも先進的な建築として注目され、これからの公共建築のあるべき姿を示しているものと賞賛された。マスコミでも取り上げられ、雑誌では特集号が出されたりした。その時の熱狂的な賞賛を知っている当方は、これを見ることは今回の沖縄に来るイチバンに大きな目的でもあった。
さて、そのように憧れてやって来た、名護市は、おりからの雨に冷たく沈んでいた。バス停から市役所は、すぐ目に入ってきたのだが、水のしみ込んだそれは、さらに暗かった。3日間の滞在中何度も訪れたのだが、囲む樹木にもまだ勢いがないこともあって、それは最後まで過去に写真で見た輝きを取り戻してはくれなかった。冬の雨の季節、いちばん悪い時期に訪問したのだから、仕方のないことだろう。また、革新の市政の町には、援助や投資も多くないようで、古い街並みが荒涼と続いていた。
翌日訪れた、今帰仁村中央公民館も似たような感じだった。かって屋根を覆っていた美しい緑はなく、それを支えていた丸太のパーゴラが、むき出しのコンクリートの屋根の上で半分くずれて乗っかっていた。観光局の人が、台風に飛ばされましたと、わかったような口ぶりで言ったのが悔しかった。ほとんど使われていないのではないかと思うほど荒れていたが、中央の屋根のある土間で小学生たちがサトウキビを絞っていて、その歓声がうれしかった。
ただこれらの建築を見ていて、その後の社会が、当時私たちが目指した未来とは、まるで違う方向に進んだことに気付いた。
その後建築には、セキュリティが求められ、内と外が明確に分けられるようになった。内部は空調によって温度湿度が管理される人工空間が普通になって、その調節つまり空調が常識化されている。同時にそこはWi-Fi空間というコンピュータが自在に使えることが必修になった。つまり自然は排除されるものになっている。いまやお年寄りが集まる場所でも、自然と一体になった縁側のある部屋より、閉め切られた空調のある部屋の方が喜ばれるだろう。
そのため建物の外面は金属やガラスなどで覆われ、外部の光線や温度湿度がシャットアウトされる材料が選ばれ、必然的にピカピカと輝くものになって、人工が強調され地域性はむしろ避けられるものになった。
結局のところその後、デザインは地域に関係のない世界共通のデザインが志向され、スター建築家の作品がコンペによって競われ、個人のセンスをいかしたデザインが世界各地で建てられる。あるいは流行という時代の空気だけを気にしたデザインか、使い勝手というすべての意見を聞いた個性のない平均値の建築が、ゼネコンというあらゆる問題点を解決する技術を取り込むシステムによって建てられる。
建築はその時点での技術のレベルを示すことになる。省エネルギーは目指されてはいるが、巨大化によってほんとうにそうかは見えにくい。想定外の危機にどこまで対処しているかは、危機が訪れるまでわからない。
ただ省エネのLD照明によって、建物の色彩もまた自在に変化できるものになっている。
そのような流れから見ると、この建物はいかにも古い、時代に取り残されたように映る。現在の状況では、あまりにセキュリティの不備だし、空調設備の設置がむつかしい。
また空気や水がしみこむ外観は、天候によって変化して、雨の日には暗く輝かない。本来、自然にあるものはそういうものなのだが、現在の都会の建物に慣れた目には、いかにも古いと感じてしまう。あえて言えば、そう感じることが変なのだと、人間だって動物(けもの)の一種に過ぎないと、思い出させてくれる意義がある。
と考えたとき、これが建てられた時期こそが、日本人という集団のすばらしさが際立った時代であったと言えるように思う。
施政者側は、現在のことより未来を考えて施策を練る。建築家は、未来にわたってのあるべき姿を考えるのが普通であった。工事する人も、その仕事に誇りを持って熱心に取り組んでいた。失敗すれば、自分の責任で修復していたし、能力の最高を発揮することを当然としていた。子どもたちには、まだアニメやマスコミの影響はなく、描く図形は花や鳥など自然のデザインを自分の頭で考えていた。
そういう稀有な時代の瞬間に、これらの建築は生まれている。それは、経済効果を第一に考える現在では、時代遅れと見えるかもしれないが、やがて、こういう発想こそがあるべきデザインと、みんなが考える時期が、また意外に早くやって来るような気がする。
いえそれ以前に、沢山の観光客が訪れる観光名所にすることは、その気になればすぐにでもできることだろう。