ポーランドの旅で思ったこと
2008年5月7日
1. ゴメン日本人とわからなかった
ベルリンのユダヤ記念碑で入場待ちの行列に加わったら案内のパンフレットを配っている青年が何語かと聞いてきた。反射的に英語と言うとその発音を聞いたためか日本語のもあると見せる。へぇー日本語があるんだと感心すると、「すみません、日本人ってわからなかった」と謝る。その謝り方が尋常でないことにこっちが驚く、中国も韓国も同じに見えるよ、こちらだってそうだ。と思いながら、ひょっとしたら間違えたことを怒る日本人がいるのではないだろうか。確かに見ればわかると思っている人が多い。
でもこちらの経験ではほんとうにわからない。中国も韓国もみんな同じだ。ただ東洋人であることはすぐにわかって、それだけで親密感がわく。こちらが行く都市でもそこが観光地でなければ、会う東洋人は日本人でないと考えた方がいい。中国製の安い衣服を売る店はどこにでもあるから働いている人らしかったら彼等だし、若い旅行者なら韓国の人だ。当然向こうの人にその差はわからない、子供なんかは正直だからチノ、チノ〜とはやし立てる。違う日本人だ。ところで日本知っているかと尋ねると、いや知らないと言う。そんなものなのだ。
2. アウシュビッツのトイレ
アウシュビッツ(ポーランドではオシフィエンチム)、こちらは乗り合いバスで行ったが、観光バスがたくさん着いていて世界中の人が訪れる博物館だ。説明を聞きながらグループで歩くのが一般的だが、こちらは日本語の案内パンフをもらって一人で歩く。
すぐに見覚えのある入口、「働けば自由になる」の鉄製のアーチがある。思っていたより小さくほとんど背の高さ、しゃがみ込まないと見上げる感じにはならない。何時の間にか勝手に壮大なものを描いていたのだ、考えてみれば強制労働者にそんな大きなものを作る意欲なんかない。見ないものを普通に考えることは不可能に近い。
それに続くレンガ造の建物のひとつひとつが展示場になっていて、悲惨な歴史を語る。たくさんの鞄や靴や義足や髪やそれで編んだ布や、子供の衣服や靴がただ積み上げられている。それをたんたんと見る、他人事のように。それしか方法はない、相手と関係ないと気持ちを切断することでやっと見ることができる。そして、こんなことをやるなんて人間ではない、こんな非人間的なことはナチスというとんでもない悪者がやったことで、私たちにはまったく関係ない。とつい思ってしまう。ただこちらはこれと同じような光景を、ベトナムでもカンボジアでも見てしまっている。そしてまた少年の頃それをやったドイツは同盟国で日本はそちら側で戦っていて、知らなかったとは言え周囲がそうであったように私もまた同じだった。これをやったナチスの若い兵士も、また殺された少年も、私とそんなに違わない人間だったと考える方が正しいだろう。誰だって生まれた時代と場所から逃れることはできない。殺された方も殺した者もそんなに違わない、時間が過ぎれば親しくなれたかもしれないのに。
窓から外を見る。二重に張られた鉄条網の向こうにポプラが植わっている。その緑の見事さを収容者たちも見ただろうかと思って、そこの60年の時間が流れていることに気付く。彼等が見たのはもっと小さな細い木だったのだろうか。パンを買ってビルケナウ行きのバスに乗る。ここも入り口からレールが伸びている見たことのある風景があって、そのいちばん奥にある記念碑の前でパンを食べる。やっぱり周囲の緑は60年の成長を重ねたのだろうなと、それしか考えることがないみたいに眺める。クラコフへ帰ったのは5時、広場の観光客の波にもまれながら、何時もの無責任な旅行者になっていく。
ルブリンの町、行き方をホテルで教えてもらいトロリーバスでマイダネク強制収容所へ、それらしい風景が見えて下車。博物館だから月曜は休みでセンターは閉まっている。誰もいない広い構内を歩く。展示棟は入れないが係員の配慮だろうか、ここだけにしか残っていないガス室と焼却場は入ることができた(アウシュビッツでは廃墟になっていた)。
ガス室は、まず裸にされ労働力になるかの選別、残された者は髪を切られ(730kgになったとある)、体温を上げるための温水シャワー、そしてガス室(最初40分がガス開発で10分になった)。焼却場は鉄製のベッドで金歯や貴金属を飲んでないかを調べてから焼却、1日千体に及んだとある。その灰をおさめた霊廟の脇にすわって風に吹かれる。構内は夏草が茂るだけ、ここでもまた周囲の樹は60年を生きて来たのかと思う。遠くルブリンの町が見える。時々休みと知らなかった人がやって来て、写真など撮って引き上げて行く。休日がかえって良かったかもしれないと思う。
ここまでの途中、ガス室を出たあたりでもうれつな尿意がして、トイレのある場所ははるかに遠いと、誰もいないのをよいことに展示棟の後ろに駆け込む。なんとそこは同じ行為の場所らしく草の色が変わっていてティッシュやナプキンも散乱していた。乾燥した空気の下では尿意がしても歩いているうちに蒸発するのが普通だが。ガス室を見た者の身体は、通常とは違う反応を示すのようだ。
そう言えばアウシュビッツの入り口にあったトイレはとても大きく広くたくさんあって、コンクリートのむき出し壁に便器が並ぶさまはまるで収容所のようだと思ったのはごく普通の発想で、ここに来た人の身体は知らないうちの収容者と同じような緊張を強いられたものになるのかもしれない。
3. なぜ昔そっくりに修復したのか?
ワルシャワの歴史博物館はスゴい。展示の最後にがれきの山となった広場の写真が壁一面に拡大され1945年と書いてある。それを見ていると、部屋の女性が隣の窓を開いてくれる。目の前に昔通りに復元された旧市街の市場広場があるという仕掛けだ。その落差に息をのむ。なぜここまで徹底的に昔そのままに修復したのか、ここに来るまで大きな疑問だった。住民も協力して昔の写真など持ち出し標識や壁のひびまで再現したと言う。実際住所の表記の書体はいかにもそれらしく稚拙だし路地の向かい同士で違っていたりして、それに違いないと思わせてくれる。
戦争の末期ソビエト軍がワルシャワに近づき開放は目前という時、住民が一斉に蜂起した。ところがソビエト軍は動かず、ナチスは徹底的な破壊に踏み切った。映画の地下水道などで描かれた通りだ。もう少し待てばいいのに、なぜ蜂起したのか。その理由、どうも彼等はソビエトが好きではなかったらしい、だから一方的に開放してもらうより、一緒に開放したという同格の地位を望んだ、ソ連はそれを察知したということらしい。
そして戦後、分割されていた祖国は独立を取り戻したのだが、ソ連の影響下だ。こういう時ナショナリズム・愛国の精神は、自分たちらしさの確立と昔通りの町並みの再現とを結びつけた。以上の理屈はわかるのだが、今回訪れてみてもう少し現実的な理由もあることに気付いた。
なによりそれがいちばん楽な計画だ。まったく新しい街区を作るには大変なエネルギーが必要だ。しかも誇れるものにしようとすれば誰に計画をしてもらうかも大変だ。国は疲弊してそんなゆとりはない。よしんばそうしたとしても、住民全部の賛同を得ることはもっとむつかしい。ロシア系もドイツ系もいる。こんな時、昔そっくりにしようというのは、誰も反対しない。いやできない。(ニューヨークの貿易センタービルの再開発はいまだに決まっていない。意見の一致は国力があるとかないとかの問題ではない)。
もうひとつその工法、石造ではなくレンガを積み上げてモルタルで化粧する方法で作られていた。細部のデザインや色は最後に付け加えることで完成できる。まずレンガをひとつずつ積み上げよう、これは敗戦の住民にとってすぐできる作業であり、何より祖国復興に参加する喜びを与えてくれたに違いない。かくて現在それは世界中の賞賛を浴び、たくさんの観光客が訪れている。同時に今も修復作業の延長として壁は塗り直され色もきれいにされている。これは戦災に遭わなかったクラコフやザモシチもまるで同じで、少しも古びていない。そういう工法であったし、その技術を持つ専門家(左官屋さんなど)がいるということだ。表面材と構造材が同じ石造だったらもっと違うものになった筈だ。
私たちが考えるそんな大変なことようやるわという感想は、むしろ建て易いという工法を最初に考えてしまう私たちの感性の方に理由があるのではなかろうか。私たちはそこまで経済主義に捕われているとも言える。実際ポーランドではごく普通の新しいビルも、窓や柱が壁から飛び出しているなどはるかに陰影の多い造りになっていて、完成までにとても時間がかかっている。窓は二重ガラスで縦にも横にも開く頑丈なサッシだ。機能主義とは造るための論理ではなく、住む側というか生活する側の論理であったのだ。
4.ポーランドの国旗も赤と白
今回の旅でいちばんうれしかったのは、その料理だ。餃子そっくりのものがあって、なんとタルタルステーキと同じくモンゴルの置き土産という。それは13世紀のことだからそれ以後の時間の中で様々に変化している。スープに入れて水餃子のようになったり、小さなお菓子になったり、ジャガイモやトウモロコシよりもはるかに古い。もちろん寒い国だからスープもいろいろあるし、お米もまたよく使われる。あまりに面白いのでクッキングブックを求めた。ワルシャワには英語専門の本屋さんがあって、待ってましたとばかりに数冊取り出してくれた。念のために聞いてみたが、やっぱり日本語版はなかった。
征服されることで伝わる文化は、交流によって伝わるのとは違って有無を言わさぬものがあるだろうし、以後伝わってくるものに対しての対応も屈折したものになりそうだ。またそれぞれの体験による個人差も大きいだろう。ドイツ好きな人もロシアの方が好きな人もいるだろうし、お隣同士でも違うということが起こり得る。つまり外に対してどう考えどう対応するか、常に一人一人が求められて来たということになるだろう。またその接し方ひとつ、その考え方ひとつが生死を分けることも起こり得る。
そう思った時、日本と同じく赤と白を使いながらまるで違う国旗のデザインについて考えてしまった。赤を情熱、国民の血の色だと考えるとポーランドのそれは上半分が白で下が赤なのだが、直接外部に接していて、対応がはっきりする。外部もまたその反応を確かめながら折衝を考えることになる。そうして外交とか交流がスタートする。お互いに緊張から逃れることはできない。現在であればまず説明責任が求められる、ま、世界から見ればごく普通の対応だろう。アメリカもイギリスもフランスも中国も国旗の赤は、外部に接している。
それに対して日本という国のアイデンティティというか情熱は外からはっきりと見ることはできるのだが、直接に触れるというか何を考えているのかよくわからない。しかも国民はどうも内側のお互い同士のことしか考えていないようであるし、たまに見かけたとしても団体行動の人ばかりでほんとに世界に触れているのかどうかもよくわからない。外側にいる人は白いカスミのようなものにしか触れることができない。過去にその血の色にさんざんヤケドさせられた周囲は、その対応がもどかしいし、その対応は世界の常識から見ると逸脱しているようだ。とそれを言っても、まるで伝わらない。
そう思って日の丸の旗をあらためて眺めると、ほんとに国としての自分勝手を表明しているだけで、個人の見えないへんちくりんなデザインに思えてしまうのだが、どうだろう。