旅をしている人
田原 晋

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サルジニア~コルシカ~ジェノバの旅1003~04

Mediterranean3 地中海3 ・201003~04
サルデーニア島~コルシカ島~ジェノバで思ったこと

1・サルジニア島とコルシカ島
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 大きさは違うが2つ並んだ同じような島に行った。今はイタリアとフランスと国も違うが、たまたまの出来事でそうなったに過ぎなく片方はスペインになる可能性もあった。どちらも先住民がいて自分たちの言語を持ち、一時は独立運動まであった場所。今はそれぞれの島の旗にその面影を感じるだけだが、それがとてもよく似ている。横向きの白いスカーフの若者が、4人いるのと1人だけの違いだ。
 ともかく15世紀まで地中海が世界で、島は攻撃占領植民独立を繰り返した。だから海岸の都市は外からの民が築いたもので、内陸部に先住の彼らが築いた町がある。という色眼鏡があったためか、やはり内陸の町をとても興味深く感じた。

 サルジニアではヌーリオという町。ここには民族博物館があって、スペイン風と感じられる白壁と瓦の建物の中に、民族衣装が集められ生活シーンも再現されていて、独自の文化があったことをじゅうぶんに感じることができた。ミュージアムのショップには伝統的な織物があり、なんでもない土産物屋さんまで海岸の都市とは趣が違っているように感じた。さらに商店街では、手の込んだ細工菓子のお店があってその繊細なセンスと技術に感動した。伝統は食べ物にいちばん残るのかもしれない。
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 コルシカではコルスという島で唯一の大学のある町。といってそれはふもとに広がっていて、旧市街は高台の斜面にそってあり、こんな場所によくぞ建てたものだと思うほどに、急な斜面に塔のような家が立ち並んでいる。さらに、その頂上部分は城壁があって、砦は廃墟になって残っている。ここも博物館になって島の歴史が示されているが、考古学対象の遺跡時代とフランスがやって来て以降の説明になっている。この城にどんな人が住みなぜ廃墟になったかは、語るまでもない出来事のようだ。
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 だからコルシカらしさは、お土産として売られている、栗の粉の入ったビスケット(カニスター二、カニストレーッリ)にいちばん残っているように思った。かって栗が主食であった時代があったとのことで、平地が少なかった結果だろう。それよりレストランでサルジニアではなかったスープ、それも魚のそれがあることに感激した。その一方で、町を歩いていてサルジニアでは沢山あったアイスクリームの店がないことが不思議だった。これはどちらも島というより国の好みの影響だ。
もうひとつ伝統音楽としてコルシカにはウォーチェ(ポリフォニー)があるとのことだが、CD屋さんで聴いてみた感じではサルジニアにも似たものがあったように思えた。むしろそれぞれの民謡は、ギリシャともポルトガルのファドとも似ている響きがあって、みんなつながっているようで、そのことがとてもうれしかった。

ともかく二つの島の国籍がちがってしまってもう200年以上、お互い自分たちの歴史以外のことを考えることもないように、それぞれが自分の国の言葉を話していた。旅行者のこちらだけが、そうだここはボンジョルノではなかったボンジュールだったと叫び直していた。
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*お菓子屋さん・Pasticceria Il Golosastro  Sorelle MeleCadinu C so Ganbaldi 173/175 Nuoro

2・食事について
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 イタリアを旅して困るのは食事だ、これまで何度も感じてきたことだ。それが今回はそうでもないと思うようになってきた。やはり旅を何度も続けるうちに、こちらなりの対症療法を考えついてきたと言えるのかもしれない。
 まず量の問題。メニューは1の皿と2の皿の表示があって、それぞれから選ぶことになっている。1の皿はパスタやリゾット、2の皿は肉や魚の料理となっている。パスタだけで済ます日本の風習はここでは通用しない。ナポリの大衆食堂で、スパゲッティだけでいいと言ったら周囲のお客さん皆さんがそれはダメ、2の皿からも選びなさいと言われてしまった。その話を行きつけの喫茶店でしたら、そうかここでトーストだけ頼んで飲み物は結構ですと言うようなものね、と言ってくれた。そうかもしれない。1の皿でスープを選べばいい、と思うがない場合が多い。ある店でやっと見付けて注文したそれは、スパゲッティの下にわずかに汁らしいものが残っている程度、アサリとムール貝のそれはとてもおいしかったけれど、お腹も大きくなってしまった。スプーンはついていないから、スープはあさりの貝殻ですくって飲むのだそうだ。
 ところが今回、あるレストランで1の皿でリゾットを注文したら、こちらの顔を見て、一緒に持ってきましょうかと言う。なるほど、メインの料理のそばにライスというよりお粥に近いけれどともかくご飯ものが付いているという感じになる。これはいいと、以後真似をすることにした。リゾットをちょっと食べたところで、2の皿も持ってきてもらうようにした。
 次に夕食の時間の問題。レストランの開店する夜の8時まで待つのが、大変に苦痛なのだ。またそこから食べだすと、部屋に帰るのが9時半10時になって、せっかくの夜の時間がなくなってしまう。そこで、イタリアの人の真似をして、昼食を1日でいちばんの食事にしてみることにした。白いテーブルクロスがかかっているお店で、1の皿、2の皿をきちんと注文する、ついデザートまで頼んでしまうことになって、1時間以上もかかってせっかくの観光の時間がなくなってしまうと思ったのだが、これは意外に調子がいい。
 お昼にきちんと食べているのだから、夕食はピッツアやサンドイッチで済ましても抵抗感がない。またお店が閉まってしまい、それを食べ損ねた場合でも空腹感は少ないから、レストラン開店まで待つことが苦痛にならない。ともかく夕方の気分がとてもいい。
 ということでやはり郷に入れば郷に従え、昼食をメインの食事にすることと、夜のレストランの開店が遅いことは結びついているのだと、腹の底から実感したのでございます。たったこれだけのことに、気づくのになんと時間がかかったことか。
 次にご紹介する話でも、夕食はごく簡単なものだった。皆さん、そういう生活をなさっているようだ。

 

3・やはり日本人のこと

 ピサ、ジェノバと世界遺産の町を訪ねたので、日本の人によく出会った。カップルなどフリー旅の人が結構多い、日本人はツアーばかりとう常識はもう間違っている。ただ、皆さん時間がないのと、安心安全のためにホテルを決めて出掛けられるようで、結構忙しそうだ。雨が降っても上がるまで待つことができない。ネット上に行き先や歩き方を尋ねるページがあるが、それを利用するとフリーのつもりが結局似たようなコースや日程になってしまうのではないだろうか。こちらの島を巡ったコースも同じようなものと思うけれど。
 もちろんツアーははるかに多い。ピサの斜塔の前の芝生にすわっていたら、次から次に日本のツアーの皆さんが通り過ぎて行く。相変わらずだと思っていたら、中にびっくりするほどオシャレな人達がいた。中年の男女それに背の高い若い男性が数人、それぞれがジャケットもパンツも見事なシルエットで新調したばかりということがよくわかる、まるでモデルさんのよう、一人は日焼けを防ぐためか傘までさしている、ふざけあいながら斜塔をバックに写真を撮っている。きっと雑誌のページのようなカットになるだろうと思ったけれど、なぜ彼らがツアーの一員としてここに来たのか不思議だった。と言うよりとても可哀想だった、ツアーの中にいることで自分たちがどう見えているかその目を持てなくなっているように感じたからだ。うまく言えないというよりこちらに言う資格はないのだが、カッコいいことがかえって格好悪く見える。せっかく高価な買い物をなさったのに、それは帰ってからお召しくださいと申し上げたくなった。ここでは芝生にすわって時間を忘れて斜塔を眺めることになっているのです、それがこの場所に来たらしなければならない行為、そうすることで世界の中でここはどことも違う特別な場所だ、座っているうちになぜかそう思うようになる。ということを理解なさる感性をきっとお持ちだと拝察できるのに、ああ勿体ない。

 それはともかく、今回は信じられないようなことが二度もあった。時刻表を見ようと入ったサルジニア島ヌーリオの駅でそれを見ている人がどうも気になる、ニホンの方です~よね~おそるおそる尋ねた彼は65歳の大分の人、世界を旅するため退職し千葉から移り住んだおひとりさまで、世界を回っていらっしゃる。こちらの荷物を何そんなに持っているのと笑われてしまった。アフリカも南アメリカも、当然のように歩いておられる。旅をしたことを記録して残そうとさへ考えていないようで、もちろんネットとは関係がない。住所も名前もわからない、せめて写真だけと撮らせていただいた。そういう高齢者が日本にはすでにいらっしゃるのだ。
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 そしてコルシカ島のアジャクシオ、KARATEの看板を見付けて眺めていると、中から出てきた人に声をかけられた。中林秀利さん、この地でもう30年道場を開いておられる。子ども向きから大人用まで教室の時間がつまっていて、お医者さんから弁護士、サラリーマンまで熱心にカラテに励んでいるとのこと。明日、出発すると言うと、なんと今晩の夕食に誘われる、ここまで旅してくる日本人を歓待なさっているようだ。これまでドキュメンタリー作家や元商社の方などが訪れたとのこと。フランス政府から表彰された日仏文化交流の推進者、中林秀利さん。テレビの取材もあった方だ。奥さまはコルシカ出身、15歳も離れた若くて美しい方だ。お子様は男女2人。
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19:30もう一度訪れた道場から車は海岸を15分走って高台にお住まいに着く。眼下には海、はるかに市街地を望む絶景の場所。テラスで時間を過ごすうちに奥さまの手料理で、サラダにミートソーススパゲッティ、わが家のそれと同じ味なのに驚いた。居間の飾り棚には屏風など和風のしつらい。写真を撮らせていただき、暗くなった道を送っていただく。
それにしても、旅は不思議だ。この親切は真似をしてどなたかに返さねばならないと思うのだが、そういう機会を持てるだろうか。


4・キリコ
 最後の町パヴィアを歩いていると、いたるところにキリコのポスターや横断幕がある。展覧会をやっていて会期中だ、ポスターも見たことのない作品でうれしくなる。キリコという名前を知らない方でも、あの目も鼻もないのっぺっらぼうな顔を一目見れば思い出される筈だ。それほど忘れられないアーティストだ。会場は博物館になっている城の一部、思ったより小さな展覧会だった。
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 ジョルジョ・デ・キリコ(1888~1978)ギリシャ生まれのイタリア人、90歳まで生きている。作品は年代順に並べられ、どのような流れで彼の特長的な絵画が生まれたかみることができた。入口でもらった詳細な彼の履歴も、それを助けてくれた。作品は30歳頃からあるのだが、最初は馬を描いている。やがて彫刻の作品になってそれは続き、ローマの戦士が現れる、その甲冑の姿が彼の絵のルーツなのかと納得する。私たちは、彼の絵の中に自分の顔つまり個性を失った現代人を見るのだが、それは見る側の勝手な想像かもしれない。ローマの甲冑の顔の部分は、つるんとした顔と紙一重だ。
 では彼は何歳の頃にその絵に到達したか、こちらはもっぱらそれを求めて見ていったのだが、それはなかなか現れない。馬と共に甲冑姿のローマの戦士が現れるのが60代後半、甲冑の顔の部分が仮面のようになっていくのが70代になってから。これがキリコの仮面だと思うものが現れた時は、もう80歳を越えている。嘘ではないか何度も確認したのだが、それに間違いはなかった。ポスターにも採用されていたいくつかの絵はすべて80歳を越えてからの作品だ。
以前彼の展覧会で、代表作である人気のない都市にたたずむ目鼻のない男の作品が(残念ながらここには来ていなかったが)、まるで同じ構図で10点以上あることを知って、人気がでるとそういう要望に応えねばならないのだろうと同情したのだが、年齢的にもうそれは当然の行動、それしか描けなかったと想像することができる。

百歳を越えてまだ現役ですばらしい作品を作り続けているブラジルの建築家オスカー・ニーマイヤーなど高齢でクリエイティブな活動を続けている人は見事だと思うけれど、80歳を過ぎて自分の代表作を完成させるのはもっと凄いことかもしれない。
私たちというか世界中の美術の愛好家は、80歳を過ぎた彼をキリコだと思っている。彼は80歳を過ぎて、世界中の人が知っているキリコになった。でも70歳までの彼がいたからこそ、80歳を過ぎてからの作品が生まれた。
今回の旅の最後になって、思ってもみなかったすばらしい贈り物をもらった気分になった。ぜひとも彼の大回顧展をやって欲しいものだ。高齢化は地球規模で起こっている現象だから、これは現在を生きるすべての人の生き方へのメッセージになる。

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