2010~11建築トラベル(安藤、SANAA、コルへの円弧)
2010年12月19日
201010~11(LeCorbusier,Ando,Sejimaへの円弧)
Ljubljana~[Venezia~Ronchamp]~Bruxelle 20日間
スロベニア~[ベネツィア~ロンシャン]~ベルギー
1. 建築ビエンナーレ
ベネツィアで開かれている第12回 建築ビエンナーレへ行った。企画展は一人のディレクターが出展者を選ぶ方式で、今回はそのディレクターに妹島和世さんが選ばれている。日本人としても女性の建築家としても、初めての選出とのこと。彼女とは20年も前だがあるプロジェクトでご一緒したことがあって、今も応援しているというか、注目している。
アルセナーレという以前の国立造船所が会場。入ってすぐSANAAの2月に完成したローザンヌの大学の教育センターが立体映像の大画面で紹介されている。(SANAAとは、妹島さんが最初は所員であった西沢立衛さんと共同でやっている設計事務所。名前は聞いた訳ではないが、妹島アーキテクトと西沢アーキテクトのアソシエーションというところかな?いいネーミングですね。今年は建築界のノーベル賞といわれるブリッカー賞を受賞までしている)会場では、それから選ばれた建築家や美術家の展示が一部屋ずつ続く。模型や構造の一部、あるいは映像など。
だが正直言ってシロウトのこちらに建築の展示はよくわからない。映像やパフォーマンスはアートとして見れば不十分だし、文章はわからない、模型を見る目もない。霧が出ると見えなくなる橋、ゴロンと置かれた大きな梁、針金でくくられた木製のドーム、なるほどとなんとなく意図はわかるが、それでどうなの?と思ったりする。途中で会った日本の若い建築家さんに話を聞きたかったが、はぐれてしまった。午後はジャルディー二(カステッロ公園)、昼食は芝生のテーブルでサンドイッチ。お天気は晴れたり曇ったりのヨーロッパの空。ここは国別の館があって、国別に出品されている。イタリア舘は企画展の続き。日本館は貝島さんが自分の事務所兼住宅を新しい形として再現させていた、確かに都市はどこも狭小になっている。
一日を過ごしてこちらが思ったのは、日本の建築家は外国の人のように楽天的というか思考が一面的でない、真面目に理屈でいろいろと(作品にする以前のことを)考えている。妹島さんすら、ここで見るとそうだ(彼女が考えた今回のテーマは、People meet in Architecture だ)。それは世界の中で相当に特異な存在に思える、建築家になるために高い偏差値が必要という条件があるためだろうか。仕事が少ないこの国の状況が影響しているのか。平穏な時代なら、おそらくマイナスに働くだろうそのような思考が、どうなるかわからない現在では逆に大変に有利に働いているように見える。今はそういう時代なのだ(コルビジュエも論説からスタートしたではないか)。
ここで見る外国の建築家は省エネもアクロバットのような構造も、作品をどう造るかでとらえているようだし、ここにいない日本の建築家の多くは作品にすることなどあきらめて、ともかく売れたらいいと努力している。とまるで思ってもみなかったことを考えながら、夕暮れの近い会場を後にした。
2.SANAAの学習センター
ローザンヌの中心部から地下鉄(すぐ地上に出る)に乗って約20分、駅名EPFL(Ecole Polytechnique Feder ale de Lousanne、ローザンヌ工科大学)で下車。大学に向かって歩き、そのまま構内へ、さらに真っすぐに進むと、目の前にRolex learning centerが現れる(注意していると途中に案内の地図がある)。
日曜も開いていて誰でも入れる。建物は、ハンカチを広げて手を放すと曲面を持ったまま地面に向かう、その瞬間を再現したように床面はやわらかいカーブを描いている。床下もそれを反転したようなカーブを描いていて、建物の下もまた歩き回るというか、通り抜けができる。世界で最初の二重ドーム建築と解説した記事があって、確かに天井と床面が同じドーム形状(曲面)だから言い方としては正しいが、そのやわらかな雰囲気は伝わりにくい。
縦横160m×120mの大きなワンフロアー。白い丸柱は目立たず、全体を見通すことができるのだが、床面の高低とあちこちにあけられた円や楕円の中庭によって視線はさえぎられて、だだっ広さは感じない。内部には、図書館、小ホール、本屋、レストラン、カフェなどが、配置されて、ワンルームであると同時にそれぞれの機能を確保している。また、あちこちにデスクやテーブル、クッションなどが置かれて、数人で話し合ったり、一人で時間を過ごすこともできる。冬の長いこの地域では特にありがたい空間になっている。日曜の午前、一人で本を読んでいる学生さんや、親子で遊びに来たらしい人もいた。
こちらも雨まじりの寒い天候の中、内外を歩き回って1時間、カフェでラッテをもらって一休み。受付(Welcome Desk)で尋ねると案内地図(1フラン)があった、絵ハガキはなし。さらに窓際のデスクを占領して、メモの整理など。結局11時までいた。団体でぞろぞろはまずいだろうが、数人ならとがめられることもなく自由に(図書館やホールは入れないが)この新しい空間を楽しむことができる。
それは自然とも街角とも違う、これまでにない場所だが、SFなどで描かれる宇宙船の中のような空間ではなく、雰囲気はやさしくとてもくつろぐ。言葉があれば、知らない同士でもごく自然に話ができそうだ。こういう未来なら来てもいいなと思える空間だ。
3. 祈りの場所
ル・コルビュジエのロンシャン礼拝堂。時期が良かったのか訪れる人が少なく、誰もいないチャペルの中に一人ですわっていた。神様の場所だから、するなと言われた写真を撮る気にはならない。
床まで伸びていた光がゆっくりと動いて、ふと消える、すると今度は南側のガラスがこれまでより色を鮮やかにする。そのような時間の中にいると、何時もは感じないことを思うようになる。最初は、床が大地の傾斜をそのままなぞっていることに気付く。その荒い仕上げ、どこまでが自然のままで、どこからが造ったものなのか。天井が片流れから中央がくびれる形に変化しているが、水の流はどこで変化するだろうか。また3つある光を取り入れる窓は、方向によって明るさが微妙に違うことに気付いたりするが、やがてそんなことはどうでもよくなる。
人は祈る動物だ、どのような人も祈ることだけは共通している。そして建築家はこのように見事な祈りの場所を設計することができる。それは選ばれた建築家だけに可能なことかもしれないが、ともかく世界は祈りの場にあふれている。だがそれはいずれも、一部の限られた人だけを相手にした場所になっている。すべての人が並んで祈る場所はない。こちらは異教徒として、ここに坐っている。20世紀はそういう分断の時代だったと言える。
世界にはいろんな人がいて、すべての人が仲良くはなれそうにない。一人ひとりが並んですわればお互いそんなに違わないとわかるが、離れてしまうとまるで理解できない相手に思えてしまう。国が、言葉が、宗教が、人種が違うと、もうそれは決定的なものに思えて、それぞれが自分の神に祈りをささげる。
21世紀の現在に求められている場所といえば、人間であれば誰でもが隣にすわって祈ることのできる場所かもしれない。祈る神は違っても、誰でもみんなが並んで坐って祈ることができればいい。そのような場所を世界中につくることが、何より必要だろう。その設計が、選ばれた建築家に求められる21世紀の新しい仕事に違いない。
こちらが思うようなことは、誰でもが考えることだろうから、やがてそういう場所を求める気運は盛り上がり、実現に向かうだろう。でも、それはどんなに急いでも構想に10年、建築家に依頼して設計するまでにさらに10年かかるだろう。実現にはさらに10年。となると、こちらには設計図すら見ることができないと、ちょっと残念な気がする。
4.アーキトラベル(建築を見る旅)の新コース
以上3都市を連ねて、アーキトラベル(建築を見る旅)の新しいコースになると思った。最初のベネティアでは、ビエンナーレは終わったが安藤忠雄さんの新しい美術館がある。
これは昔の建物の改築で安藤忠雄らしさは少ないと思われるかもしれないが、逆に彼の到達点を示した代表作のひとつに違いない。というより「彼の作品」が、西欧を代表する都市に何の違和感もなくおさまることを示している。確かに彼らしい外観はないが、コンクリートの打ち放しは計算しつくされて挿入され、名人芸と言えるまでに美しい。また同じような改築で見事な作品を残したCスカルパへの敬意を示した部分もあって、大変に知的な建築になっている。それは彼の作品と書いたところに、「日本を代表する文化」と書き直してもいいと思えるほどだ。
そのベネティアからローザンヌへは、わずか7時間で行くことができる。さらに、ここからロンシャンのあるベルフォートまでの間には、ベルンやバーゼルという都市があって、欧州の現在を代表する建築家・マリオ・ボッタ、Rピアノ、ヘルツクオーク&ドムーロンなどの作品が沢山ある。
そして最後に20世紀を代表するコルビュジエという並び方も、理想的であるように思う。これからの都市や建築の在り方について考えるにふさわしいコースだろう。
特に、若い学生さんにはぜひ訪ねて欲しい。旅をしていて、若い日本人に会えないのは、なんとも悔しい。一時は韓国の人が多かったが、今回は中国の若い人が多くて驚いた。日本人は若い人も含めて、観光地のとても狭い地域でしかお目にかかることができない。これはとても大きな問題だ。行った人はそのことに気付かずに帰国して、その行程はまたネット上で他人に紹介され再生産されているに違いない。