FACE BOOK の旅というより散歩
2011年7月12日
思いもかけぬ懐かしい友人から声がかかって、ついフェイスブックなるものに入会した。何も言わないうちに数人の友人から、参加したのだね、良かったよかったと声をかけられて、びっくりした。その広がりに、さすが新しいシステムだと感心はしたが、情報をやりとりする方法として、それがどう優れているのか、もうひとつよくわからない。
コメントを書くにしても、そう長い文章を書くようにはなっていなくて、むしろほんの印象記というか感想だけ、それ以上に写真などの映像が添付されることが求められているようだ。文章を書くとしたらブログの方がまだ、自分の書きたいことを書けるような気がする。見られる範囲は限られるだろうが、見る見ないは相手の勝手だから、これまで通りにブログに書けばいいではないかと思ってしまった。
また送られてきた友人の意見にも何か書こうとしたら、用意されているスペースはほんの1行分くらいしかない。書けばそのスペースは広がっていくようではあるが、お互いの意見を交換して新しい発想にたどりつくことは期待されていないようだ。さらに「いいね」と問われていたりしているが、その意見のここはいいけれどこの部分はちょっと違うのではないかなどと思ったりすると、もう応える場所がなくて、結局知らん顔をしてしまうことになる。
数回は、コメントを発したりしたが、結局すぐに開店休業になってしまった。以前ミクシィに入会して、しばらく友人の便りに返事したりしていたが、結局開くことすらしなくなった。それと同じ運命をたどることになりそうだ。
と思っていたら、ある仲間の集まりでフェイスブックに参加している一人から、なぜ返事しないの、せっかく出しているのだから、見たというしるしにでも、せめて「いいわ」というクリックだけでもしなさいよ、と言われてしまった。
これはいい機会だと、そのクリックにどんな意味があるの?どんな意見でも一部賛成はあるにしても、全部賛成ってないよと、日頃の疑問を投げかけてみると、それは返事の数を求めているの。多くの人が注目した意見となると、それに価値が出る。ある一定数以上の人が「いい」と返事した意見は、別扱いになって特別表示される。すると、まるで関係ない人にまで広がって、注目を集める。それによって仕事につながったりするのよとのこと。
そういうものかと納得したのだが、こちらは自分の言うことに数を求めてはいない。それで仕事につながろうとする人はそうだろうが、こちらはそんな期待はまるでない。また多数から賛成を受けるだろう意見を言うつもりもない。せめて、そんな見方や考えもあるのかと知って欲しいだけだ。今の世の中、あまりに気分だけで評価がなされているように思えるから、むしろその反対のことを、あえて言っておきたいと思うばかりだ。
やはりフェイスブックなど、関係ないかと、思おうとしたのですが。自分の意見が、百も千もひょっとしたら万も10万も見られるとしたら、それは言い方が変わってしまうだろうな、とも思ったのであります。世の中、むつかしいものですね。
*さて、これをフェイスブックにも載せようとして、はてどうするのだったかな?と、すっかりわからなくなっています。やれやれ。