旅をしている人
田原 晋

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東北の旅1108

東北/気仙沼・石巻~十和田 20110828~0831
Touhoku/Kesennuma~Ishinomaki~Towada

もう半年たちました。海は静かでほんとうに美しい。あの災禍が嘘であったらいいのに、
いえ実際あれは夢であったのではないか、ついそう思ってしまいます。
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[旅の前に] 突然ですが、明日早朝から東北に行きます。いえ「東北に行ってみたい。福島は無理だけど、あの津波の跡をこの目で確かめてみたい。風の音や臭いなど、行ってみないとわからないことがある」と言ったら、私もそう思うという人がいて専門職の相手がボランティア先を探してきて、行き先と出迎えを確保した。そうするともう一人、私も連れて行ってという人も出て、結局3人で出かけることになりました。ともかく仙台空港で3人が集まり、迎えの車に乗って気仙沼に向かうことになっています。2人は仕事があるので、長居はできませんが、ともかく東北にこの身をおいてみることができます。ありがたい、うれしいことです。30代Y(ビオラ演奏家)、50代R(歯科衛生士)、70代のコチトラの3人という構成もめったにないものでしょう。
(中国の旅を、ばたばたとまとめた理由もここにありました)

[ まとめ方 ]今回の旅、あまりにいろいろのことが次から次に起こって、筋道をたててまとめることはとても不可能。起こったことと思ったことを、併記しながらともかく書きつけることにします。読みにくいと思いますが、こちら自身のためです。お許しください。

1・8月28日(日) 
 阪急・御影6:31 ~十三~蛍池~大阪・伊丹空港
CA162 大阪発 7:50~仙台着 9:10                
 仙台空港にて東京からのYさんと合流、迎えの車で出発、という予定だが、なんと大チョンボ。Rさんだけで出発してもらう。初対面だが何とかなるだろうとお願いする。二人は空港で出迎えの藤田さんとも落ち合い、目的の気仙沼の避難所へ。その2時間の道中、お互いにとても親しくなったとのこと。Rさんはそこで口腔ケア、Yさんは演奏を行った。

[大チョンボ]伊丹空港に着いて、なんとリュックを電車の網棚に置き忘れて来たことに気付く。阪急蛍池の駅でそのことを言って、探してもらう。梅田にはなく西宮で残っていることが判明、取りに行く。ごく普通に何でもないことのように渡してくださる。なんと電車も無料、ご厚意に甘える。
*この間のすべてのことは、さすが日本というか阪急神戸線というか、外国では考えられないことだ。
それにしても、じじいになったものだ。またあることに気を付けねばならない。
 
 カウンターで次の便をお願いすると、無料で切り替えてくれて無事出発することができる。
 CA733 大阪発 9:45~仙台着11:00 わずか2時間の遅刻ということになる~イヤハヤ。
 空港バスで仙台駅へ11:00発~12:00到着。駅で気仙沼行きを尋ねると、在来線が早いとのこと。
*乗り継ぎ駅・時刻を丁寧に書いてくれて(専用用紙まである)恐縮。この国ならではの親切だ。
東北線下りで北上する(西に住む者には、逆の感覚)。昼食は車内でコンビニおむすびとお茶。乗客、大きなリュックの若者多い、こちらと同じような昼食も数人いた。
 仙台12:45発~小牛田~一関~気仙沼16:09着
 駅前のタクシーに、ケータイで聞いた避難所の中学校を告げると、30分足らずで到着。ビオラの音が聞こえてきた。後で聞くと、結局4時間の遅刻だったようだ。皆さんは、もう何時間も活動している。

[避難所と仮設住宅]気仙沼市でも石巻市でも、まだ避難所が残っていた。目の前に仮設住宅は建っているが、優先順位の高い子どものいる家庭や大家族で、すでに満杯。残りは遠く離れた山間の場所への移動を要求されている。残っているのは高齢のおひとりさまがほとんど。そちらが便利と言われても、行く気になれないのも理解できる。住み慣れた場所を離れるのはつらいだろうし、震災後一緒に避難していた仲間が目の前の仮設にいるのだから、その差別?に納得できないと思うことも理解できる。
 こちらができることは、ただその話を聞いて、そうだそうですね、つらいですねと言うだけだ。
*数日後、岩手県では避難所はすべて閉鎖したとの報道があった。
*阪神大震災では、仮設住宅は遠くの場所がほとんどで、全員が有無を言わせずに引っ越しさせられた。そして後で孤独死などの問題が発生した。

[被災地でのボランティア・口腔ケア]高齢者にとって口腔ケアは欠かせない。その大切さはここ数年ますます認識されている。口をきちんと動かすことは、表情・ボケ・健康につながっている。その清掃とマッサージ、健康維持の指導など、それを担当するのが歯科衛生士だ。
現場では受ける人の最初の疑心暗鬼が、やがてやさしい表情笑顔に劇的に変わっていく。この活動、お互いがやり方を勉強しながら深め広げている。また震災1か月後にはボランティアとして入っている。

[被災地でのボランティア・ビオラ演奏]突然の訪問。まるで期待されていない活動だが、音楽の力というか、ビオラという楽器の持つやさしい音色が、聴く人の気持ちをほぐしていく。クラッシクの名曲で始まるが、結局のところよく知っている懐かしい童謡がいちばん喜ばれるようだ。もちろん居眠りをする人もいる、でも心地よい眠りだ。
 演奏のYさん、中国の田舎での演奏を聴いているが、演奏の場や音の響きなどの環境より、聴く人の気持ちを第一に考える姿勢にとても感心する。

[藤田典子さん]
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今回のボランティアの仕掛け人、岡山県の歯科衛生士。なんと4月には最初の訪問で東北に入り、以来毎月訪れていている。そのバイタリティとサービス精神に驚き感心する。気仙沼市の衛生担当の職員(彼女も被災している)と親しくなり、口腔ケア体制の確立。現在2人の歯科衛生士がいる(若い人と、他へ転職していた人の再就職、夫の失業で目下所帯唯一の稼ぎ手)、その援助から育成までやって、歯科衛生士という新しい職業を被災地に定着させている。
同時にネット上でボランティアを募り、駆けつける人もまた次々に現れている。それはベテランが多いから、現地の2人はそのやり方を見て、教えられ、資料の提供を受けている。そこには新しい職業ならではの、使命感と連帯が感じられた。
またケアを受けた側から、現地での宿泊や食事のサービスを申し出る方もいらっしゃる。こうして関係が広がっていく。それはこれまでの経済感覚とは違う、新しい互恵システムだ。今回私たちもそのお世話になった。

 夕刻、埼玉へ帰る一人を送るために一関へ、約1時間の距離。その間の運転はすべて藤田さん、朝は仙台空港まで行っている。その元気はどこから来るのか。倉敷ナンバーのワゴン車、人数が多いから今回はこれにしたのだと言う。たった一人で、岡山から何度も往復している。運転もまたほれぼれする。
その前、誰も要求していないのに、惨憺たる被災地へ車を入れてその現在を見せてくれる。地盤の沈下で満潮時には海水が浸入して、入ることができなくなると言う。大きな船が、道路わきに鎮座している。残っているビルは1階の壁だけが破壊されて流され、むき出しの鉄骨が海の方向に一様にねじ曲がっている。引き潮の津波の驚くべき力だ。
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img20110912092511002*これらを片付けるには巨大なクレーン(たぶん船だろう)が必要だ。それをどうやって運んで来るのか。作業の遅れをただ糾弾するだけでは正しくない。すべてが絡み合っている。

一関駅前で夕食。うなぎがおいしく、また店のおばさんが明るく面白く楽しかった。大阪のようだ。気仙沼に帰って、待っている方がいるのだと大きなお宅に立ち寄る。大きな鍋で焼いた(ゆべし?)とお茶をふるまわれる。わざわざ作って待っておられた。この地方の住まいの豪華な造りに驚く。そして近くの閉鎖した元避難所で泊まった。敷地の外れに仮設の大きな浴室がある。それも手配したのも藤田さん。本来男女のセットだが、もう1台は別の場所に設置したとのこと。
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そこで顔を洗う。星空がキレイ、天の川も見えた。そしてやはり関西よりはるかに冷える。ふとんを並べ、こちらがいちばん先に寝る。翌朝、ずいぶんイビキをかいていたと言われる(生まれて初めて指摘された)。長い1日、やはり相当に疲れていたのだ。


2・8月29日(月)
 6;30起床、Rさん持参のコーヒーと昨夜いただいた「ゆべし」で朝食。7:30出発、岡山からの新しい参加者を迎えるために、一関へ。道路はまだ完全でなく、渋滞。遠回りするが、同じようなものだ。
 12:00避難所に到着。昼食の終わるのを待って活動を開始。ビオラ演奏は12:30から、ホールは適度な大きさで天井が高く、他の避難所よりも快適そうだ。演奏を熱心に聴くひと、うつらうつらと気持ちよさそうに聞くひと、それぞれの心に届いているようだ。口腔ケアの皆さんはそれぞれに忙しい。

[被災の人たち] 何の専門技術のないこちらは、話を聞く意外に何もできない。肩書もないから結局、ビオラ弾きのマネージャーということになってしまった。
ただ、もう半年近く過ぎて、被災者の方が訪れるボランティアへの対応に慣れておられる。こちらはその思いやりを感じながら、話を聞いている。結局のところ、いろんな人がやって来て、あれこれと手伝いサービスを提供してくれる。確かに今の被災の生活の助けになり、一時にやすらぎを与えられる。それでいい、それで充分だ、そう思われているような気がする。
だが、いちばんの肝心な問題、明日からの生活、仕事、住まいには、何の解決も与えられない。そのもどかしさというか、やるせなさが、ここには溢れている。でも誰もそれに気付かないフリをして明るくふるまわれている。偉いなぁ、心の中で頭を下げている。

16:00ここでの作業を終え、歯科衛生士のグループは今後のやり方や情報の伝え方などの打ち合わせ、こちらは周辺を散歩。車で出発、夕日に遠くの海岸が輝いている、震災などなかったようにおだやかで美しい風景だ。軽い食事、荷物を届けたり連絡などをするうちにすっかり暗くなる。
 斉藤さんという藤田さんが基地にしているお宅へ行く。ご馳走が用意されている。さんまの塩焼き夏野菜海産物、東北の普通の料理が普通の味付けで並んでいて感激、おいしい。Yさんがお礼にビオラを演奏、ご主人クラッシック好きでとても喜んでもらえる。
こちらは何もしないのに申し訳ない。応接セットの間にふとんを用意してもらって休む。

3・8月30日(火)
 5:30起床、6:00出発。奥さまが昨夜のご飯をおむすびにして渡してくださる。もう来ることはないだろうが、思わぬお世話になったと感謝する。
 例によって、藤田さんは石巻の被災地域をゆっくりと回ってくれる。石巻は平野部がはるかに広い工場地帯、その多くが水産関連のもの。この国の水産業は、瀬戸内に住むこちらが思っていたよりはるかに大規模な巨大産業だ。
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[被災地の復興]例えば水産関連にしぼったとしても、漁場、船舶、養殖の施設、港湾、市場、加工工場、倉庫物流などが、一体になって同時に大規模に復旧復興しなければならない。ほとんど困難なむつかしい作業だ。さらに、この際これまでの問題を解決して新しい方向に導こうとすると、大変な決意と一貫性が求められる。近海と遠洋では期待される内容が違う。中傷もあるだろうし、お金の使い方も片寄りが避けられないだろう。
ほとんどの人は自分に関係のある部分はよく見えるから、その遅早を問題にする。それは仕方がないことだろうが、間違いも多い。何よりテレビを見ただけの感情的な判断は、間違っていると思う方が正しいだろう。部外者は黙ってお金を出すしかないのだが、これもまたむつかしい。
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 8:00仙台駅到着。Yさんは午後から出社する予定だと東京に新幹線で帰って行った。同じく昨日来た岡山のAさんは福山へ。藤田さんも車を運転して帰るとのこと、今日は友人のいる千葉までと言うが、すごいバイタリティだ。短いが充実した日が終わった。
 こちらはRさんと構内のスタバで一休みして、これからの行動を考えることにした。
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