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田原 晋

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ウィーン、ブルガリア、ブカレストの旅0603

[旅で思ったこと]

1/ウィーン旧市街の通り
 着いたばかりのウィーン、住所さへわかればホテルを探すなんて簡単なことだと、せっかく位置を示してくれた地図をいらないと断って歩き出した。通りは広い道に面したところであっけなく行き止まりになっていたから、ここまでにないのがおかしい、ともう一度帰ってみたがない。通りをもう一度確認してみたが間違っていない。夜の道は尋ねることができそうな人は歩いていない、仕方なく横の道のはるか向こうに見えた別なホテルに行って尋ねることにした。住所を見てこちらが探した通りで間違いないと言う。また行ってみるが、ない。あきらめてそのホテルに戻ってお宅に泊めてよと言うと、親切にも番号を探して電話してくれた。そしてこちらが行き止まりと思ったその先に行くのだと言う。道はカギ型に横に10mほど行ったところからさらに延びている。入口にここと同じテントがかかっている、色は白だけど。ということですっかり重くなったバゲッジを引っ張って歩く。確かに言われた通りに道はあって、折れてすぐのところにホテルはあった。5分と言われた場所に1時間近くかかってしまった。
 こちらが勝手に行き止まりと考えた、その常識が間違っていた。通りとは視界がひらけて続いていて、それが目に見えるものだ。誰も教えてくれたわけでもないのに、勝手にそう信じていたらしい。城下町ではガギ型に道が折れているということは知っていたが、それをはるかに越えたカギ型だったということだ。翌日地図を見るとその先に博物館があったので歩いてみることにした。
 旧市街の一方通行のバス道、両側に5階建ての家が途切れなく並んで、わずかにカーブしたりして続いている。1mばかり飛び出した家もある、これは立ち退いてもらうことになっているのだと歩道をそこで行き止まりにするのではなく、わずかではあるがその家の前にも歩道をちゃんと付けて、公道が折れている。逆にひっこんだ場所もあって、公園とは言えないけれど、木があったりベンチがおいてあったりした。電車が通る広い道が横切っている場所では十字の四つ辻になるのではなく、ずれるのがむしろ普通だ。おそらく広い道は後で拡張したもので、その間を斜に走っていた道がそのような形になって残ったのだろう。と考えるとずれているのが正常ということだ。そこには建物が優先して道路があるというか、あるものは仕方がないから残せばいいという姿勢だ。
 こちらの頭の中に、道路を優先して都市というものができているという発想があるようだ。いや道路を計画すれば、建物はそれに従って建て直されるものだという常識がみなぎってしまっているとでも言うか、人間の頭の中で考えられた道という発想を重視して、現実にある建物の方を壊わしたり動かしたりする、それを当然と思うように慣らされている。これは変なことかもしれない。

 私の住む神戸は震災の後、都市計画という頭の中で考えたことが優先されて、町は大きく変わってしまった。せっかく残った建物や樹木も壊されたり切られたりして、つるつるぴかぴかの美しくはあるがまるで違う町になった。それは仕方がないことだと思っていたのだが、そこに住む当方の頭の中まで変えさせられていたとは気付かなかった。

2/ユーゴスラビア人
 ウィーンからブルガリアに向かう途中、分割された旧ユーゴスラビアの二つの国の首都を通って行くことにした。クロアチアのザグレブは豊かで美しい町で、3月にはめずらしいという雪が降って一面の銀世界になったのだが、それでもどこかエーゲ海岸の明るい雰囲気を感じてしまう。歴史的にも西欧との関係が深かったために、20世紀になってからのユーゴ体制を精算して独立しようと言うのはごく自然な発想だっただろう。実際CNNのテレビにはすばらしい観光地としてのCMが流れている。美術館での独立時の写真展がなければ、つい10年前戦争があって人が死んだことなど思い出させるものは何もなく、人は男も女も大きくさっそうと歩いていた。
 しかしクロアチア(その前にスロベニア)が独立したことは、他の地域の人たちの人種意識に大きな影響を与え、長い間入り乱れて住んでいたクロアチア人、セルビア人、アルバニア人(ムスリムが多い)はそれぞれに悲惨な目にあうことになったし、紛争は現在もまだ続いている。
 旧ユーゴ現在のセルビアモンテネグロの首都ベオグラードはドナウ川を望む交通の要所にある大都市で、歴史的に多くの民族が攻防を繰り返し丘の上にはオスマンの城跡がある。ここに多いセルビアの人たちに、旧ユーゴを懐かしむ意識とそこから独立した経済的には発展した豊かな人への憎しみが重なったことは容易に類推できる。
 そこで起こった残された領土に住む違う民族の人たちへの激しい対応は、ニュースで知っている通りだ。それは国連軍の空爆を呼び、それによって壊れた建物は10年後の今もそのまま残っていて、どこか暗い陰鬱な印象だ。駅で会った日本の若い旅行者は、ここは観光にはまだ早かったと言う、なるほどうまい言い方だと思ったが、こちらは観光に早い遅いがあるという見方に賛成はしない。むしろ未整備な現在に訪れたことは悪くなかった。伝統的な木造の建物があちこちに残っているし、現代美術館ではユーゴという連邦国家の良い面を見ることができたし、切手はユーゴという表記のままだった。

 そして何より、こちらの目からセルビア、クロアチアあるいはアルバニアの人を見分けることはできなかった。貧しそうな人や背の低い人もいたがそれは個人の差で、みなさん見事に白人だ。それはこちらを見て中国人だ中国人だと言われるのと同じで、外から見て民族はわからない。中国も韓国も日本も、同じようなものなのだ。
 ともかく愛国心というものは強くなり過ぎると一人一人の自由さをうばい周囲に悪い影響を及ぼすことになる。そういうマイナスの面を心しておかねばならない。すでに国民国家という方式はもう時代遅れのシステムということになっているのだから。失敗したとはいえ、ユーゴという国が試みた実験、特に「私はユーゴ人」という人たちがいたことは忘れたくないものだと思う。彼等はそのために余分な苦労をしたことになっただろうと思うのだが。
          *現代美術館のトイレの男女標示


3/ブルガリアの染色(Sさんのこと)
 今回の旅はこの4月で任期を終えた青年海外協力隊のSさんに会うのが、目的と言えばいえるものだった。失われたブルガリアの染色の技法を復活するという2年間の活動の成果を見せてもらうためだ。といって2年前たまたま訪れた民俗博物館で声をかけられて小1時間話をしただけ。旅で知り合った方と関係が続くのはありがたいことだが、思い出してみると彼女のことはほとんど何も知らない、そんな人を訪ねて野を越え山越えはるばる出掛けるのはやはり相当に酔狂だ。雪の峠、霧氷のトンネルをくぐって走るバスの中でそう思った。
  到着して電話すると、展覧会は開催が22日からと遅れ、それを前にした忙しい最中。だが翌日その作業場にお邪魔して作品を見せていただくことになった。案内されたのは高層公団住宅の2DKの仕事場兼住宅。玄関を入ってすぐの食卓で、展覧会のためのパネル制作中。
 染められた毛糸の束が、直染めのものとそれにミョウバンや灰などの触媒を使ったもの8種類がすでにひとまとめにして白い紙に貼ってある、それが150。触媒はすべて同じものを使っているので、比較できるし後で誰でもが制作できると言う。これに材料になった草花や茸また鉱物などの写真を張り付けている。同じ材料から染められた8種類は、どこか似ているというかハーモニーがあってまるで虹のよう、つまり150の虹がテーブルの上に溢れている。それは草木染めのイメージをはるかに越えて、鮮やかな色や濃い色もある。これだけ違いのある虹を、人間は想像だけでは作ることはできない。
 展覧会は、その写真パネルが壁に並び、中央のテーブルに大きな毛糸の束をいくつか並べると言う。同時にその方法をまとめたブルガリア語と英語の本が出版される。それらは色にあふれて美しくはあるが、染色家個人の作品を誇示するものではない。むしろ個人は背景にさがって、ブルガリアの自然の見事な造形を見せるものになっている。これは芸術家のセンスと技術師としての良心の両方がないとできない作業だ。しかもその写真パネルはエタル民俗博物館の収蔵品となって、以後誰でもが利用できるようになると、当然のことでしょうという感じで説明してくれた。
 傍にあったポートフォリオを見ると、日本では染色家として各地での個展など作品を発表していて、このような技術を広める活動の才能があるなど想像できない。なぜここに来たのか、これまでのことなどを聞く。フィンランドへの留学経験があって大きな影響を与えているようで、そのコリ地方への旅をすすめられた。
 そんな話しをしていて3時間が過ぎたが3月の終わりでもまだ寒い。全館暖房の設備はあるが、現体制になって光熱費が高騰して払えない人がいてストップしたまま、オイルヒーターをテーブルの下に置いて毛布をかけこたつのようにして暖をとった。いい機会だからと住まいも見せてもらったが、キッチンは流しと調理台だけ。レンジは吹きさらしのテラスにある、さすがに耐えられず、窓をつける改造がされている。道理で多くの住宅がそうしている訳だと教えられる。おそらく民家でかまどが居間とは別室の土間にあり、室内にはパントリーがあるという伝統が、こんなところに顔を出しているのだろうし、それは事故を防ぐ切実な方法でもあったのだろう。真冬にはシャワーのお湯が流しのところで凍ってしまってさすがに参ったとのこと。そういう厳寒の地方なのだ。
 出掛けた町の中心部にあるレストランは大勢の人が週末の食事を楽しんでいた。民族音楽の演奏のある郷土料理のお店。中央に20名ばかりのグループがいたが、やがて女性たちが立ち上がり手をつないで踊りだす男性もその輪の中に次々と入る、フォークダンスだ。もう真夜中、こちらはさすがに引き上げることにする。
 展覧会までいることはできないので、翌日、博物館内の会場だけを確認して引き上げた。でも来た甲斐があったと満足している。本はあらためて日本訳でも出したいと言うが、それが手にできればと願っている。2年間の青年海外協力隊としては理想的な活動だったように思う。彼女は既にまるで違う生活をスタートさせている。
                 *展覧会の準備作業

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ウィーン、ブルガリア、ブカレストの旅0603

[1]運賃など/エアーリンク支払い
航空券など/航空券¥72,000      *冬のヨーロッパは燃料アップ分を加えても安い。
      関空施設使用2,650 航空保険超過負担3,600 燃料チャージ13,000
      中国空港建設3,000 Au旅客保安税1,200 Au空港サービス2,100
      Ro出国2,00 Ro保安1,500 旅行保険11,240/合計112,290円
*病院の直接費用は、旅行保険にて請求額通り支払ってくれた。7,331円(06.04.11)
[2]列車運賃(円換算)
Wien〜Graz27.80(3,920円)、Graz〜Zagreb36.50(5,146円)、
Zagreb〜Beograd 140.60(2,728円)、
Beograd〜Sofia 1,041(1,715円).、
Sofia〜Kazanlak(bus) 15.03(1,125円)、Kazanlak〜Gabrovo(bus)
Gabrovo〜Ruse (bus) 8.00(600円)、Ruse〜Budapest 16.68(1,251円)
[3]ホテル代/  *少しだけきちんとしたホテルを選ぶようになった、やはり歳かなぁ?

 前回インターネットが普及してホテルの予約のやり方が変化していることに気付いた。また一度行ったことのある場所が多く都市の雰囲気もわかっている。Wienは泊まるだけだから安い方に、Grazは駅前のIbis、最後のBucurestiはやはり駅前のIbisにして、これだけは予約を入れておくことにする。他は日取りが変わるから予約はできないが、観光シーズンではないから当日で充分だろう、旧ユーゴの2都市は飛び込みのつもり。ということで予定は決めた。
*Ibis Hotelは欧州最大のホテルチェーン、場所がよく安価で清潔なので、結構利用している。

1.3月 1日(水)Wien/Altstadt Hotel 99eur/14,026円
2.3月 2日(木)Wien/Altstadt Hotel 99eur/14,221
3.3月 3日(金)Graz/Ibis Hotel
4.3月 4日(土)Graz/Ibis Hotel 142eur/20,398.(10,199/日)
5.3月 5日(日)Zagreb/Palace Hotel Zagreb
6.3月 6日(月)Zagreb/Palace Hotel Zagreb
7.3月 7日(火)   /Palace Hotel Zagreb
8.3月 8日(水)   /Palace Hotel Zagreb 3303kunaクーナ/64,652円
                       うち宿泊3080kuna/60,287円(15,072/日)
9.3月 9日(木)Beograd/Astoria Hotel 2,500csd/4,118.
10.3月10日(金)Beograd/Park Hotel
11.3月11日(土)Beograd/Park Hotel 12,240csd/20,251.(10,125)
12.3月12日(日)Sofia/Maria Luiza Hotel
13.3月13日(月)  /Maria Luiza Hotel 163eur/23,596(11,798)
14.3月14日(火)  /Gloria Palace Hotel 196bgn/14,497円.
15.3月15日(水)Kazanlak/Hotel Kazanlak 42bgn/3,027円
16.3月16日(木)Gabrovo〜Etar/Strannopriemnitsaストランノプリエムニツア
17.3月17日(金) /Strannopriemnitsaストランノプリエムニツア 60.bgn/4,326円
18.3月18日(土)Ruse/Danube Hotel 130.00bgn(66.46eur)/9,559円
19.3月19日(日)Bucuresti/Ibis Hotel
20.3月20日(月)Bucuresti /Ibis Hotel
21.3月21日(火)Bucuresti /Ibis Hotel 863.76(244eur)/35,056円(11,685/日)

               合計/222,521円(21泊)・1泊あたり/10,596円

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ウィーン、ブルガリア、ブカレストの旅0603

クロアチア~イタリアの旅に出る前に、2年前の旅を紹介します。

Wien〜Bulgaria〜Bucuresti/
200603

旅の前に
 今回はまだ寒い時期にヨーロッパに行く。2年前ブルガリアで会った海外青年協力隊のSさんが任期をこの春で終えるのでその成果を現地で見せてもらうことにした。失われた染めの技術を復元したのだ。なにより旅で偶然知り合った方との関係が続いていくことはうれしい。といって1時間足らず話しただけで、その才能や能力はもちろん履歴も性格も知らない人をはるばる訪ねて行くのだから相当に酔狂だ。それにまだ雪が残る地に出掛けるのは不安でもある。
情報がないので観光シーズンでない時期に予定通りに行けるかどうかよくわからない。とはいえ,初めての国も訪れながら行くことにした。

 前回インターネットが普及してホテルの予約のやり方が変化していることに気付いた。また一度行ったことのある場所が多く都市の雰囲気もわかっている。Wienは泊まるだけだから安い方に、Grazは駅前のIbis、最後のBucurestiはやはり駅前のIbisにして、これだけは予約を入れておくことにする。他は日取りが変わるから予約はできないが、観光シーズンではないから当日で充分だろう、fg旧ユーゴの2都市は飛び込みのつもり。ということで予定は決めた。



1.3月 1日(水)リムジン/六甲Id〜関空 7:33〜8:30
        全日空/ NH159 KIX 10:00〜北京 12:20
   オーストリア航空/OS 64 北京 14:45〜Wien 18:15
 ウィーン発着が便利だがオーストリア航空が関空への寄港を中止した代わりの中国経由の便、北京の空港はトランジットが面倒で、いったん入国させてから出国と客を結構な距離歩かさせてくれる。
 ウィーンは残雪がここかしこ。予約していた安ホテルはカードの番号を知らせないからキャンセルという驚くべき事態。勝手知った町だが紹介されたホテルがわからず1時間歩き回って(通りすがりのお兄さん、別のホテルのおじさんの親切もあって、やっと)落ち着いたのは午後10時過ぎ、さすが疲れる。
                    泊/Altstadt Hotel
2.3月 2日(木)Wien
 遅い朝食お年寄りが多い、どこの国もそういう旅行者が目立つ。まず目の前のミュージアムQへ、現代美術館、建築美術館とハシゴ。お昼もそこで済ます。それからシュテファン寺院からロースハウス、マジョリカハウス(二川さんのカレンダーをなどる)。公園では屋外スケート場があり大変な賑わい、やはり北国だ。
 早い夕食をして、部屋で過ごす。Mezzhoというテレビチャンネルがあり(フランスのもらしい)、クラッシクの演奏(深夜にはジャズ)を途中でカットしたり説明を加えずにきちんと流す。
     泊/Altstadt Hotel (帰国後名前を調べると、旧市街という意味。いいホテルだった)
*どこの国でも首都のホテル代は、100eurするようだ。100$ではもうむつかしい?

3.3月 3日(金)Wien〜Graz                 泊/Ibis Hotel
 最初の夜迷った道を歩いてみようと、その先にあるオーストリア民俗博物館へ行く。通りはカーブしたり交差点で5~10mくらいずれたり建物が1m出っ張っていたり、道に対するこちらの常識が現実ではない。
 その博物館、1階は型通りだが、2階が子供の生活を見せる展示で低学年の子供たちが授業で来ていた。半分が自国の昔の生活で、残りが中国のそれ、人形や玩具や生活のビデオまでそろえられていた。この年代から自分たちと違う人がいて同じような生活をしていることを勉強している。日本の展示でないのを残念に思ったが、彼等にとって今いちばんの異邦人は中国人だろうと、なんだかとても感心した。こちらはこの国の「なまはげ」お面を撮らせてもらった(どこの国にもこういう風習はあるようだ)。
 午後の電車でグラーツへ2回目、駅前の同じホテル。天候は悪くなって雨まじり。トラムで中心部へ。
また新設のヒトデのような美術館を川の傍で発見、夜景を撮る。駅の改造も終わっていて夕食とお茶。

4.3月 4日(土)Graz                    泊/Ibis Hotel
 最初に前回入れなかった大学の温室へ、雪の中から這い出した幼虫のようなデザイン。勝手に入れとあり母子の先客がいた。小さいがいい感じ。スープの昼食をすましてから、新設の美術館、クンストハウスグラーツへ。女性2人の特別展は楽しかったが、建築は外観優先が目立っで少しガッカリ。(昨年、日本の現代美術「ちかく展」も紹介している)。また、これも新しい川の中の建造物を見る。それぞれまるで違うが共通点もある「どこか生き物みたい」ように思う。住宅のたたずまいを含め、古くて新しい好きな町だ。
 夕食は別のホテルの食堂、すっかり気に入った駅のカフェで過ごす。

5.3月 5日(日)Graz8:30〜Zagreb12:30/クロアチア  泊/Palace Hotel Zagreb
 5:30目覚めると雪、窓の外がみるみる白くなっていく。8:00ホームでウィーンからの列車を待つ。銀世界の中を峠に向かって走り、スロベニアに入国出国して少し高度がさがってクロアチア、みぞれのザグレブに着く。駅近くのホテルの部屋は広い緑地に面した4階ツイン気持ちいい。だが、出発前階段ですりむいた傷が化膿して痛く、明日病院に行くことに。雪がひどくなりどこにも行けず、夕食もホテル。

6.3月 6日(月)Zagreb          泊/Palace Hotel Zagreb
 朝、積雪は20cmくらいか、公園で木が倒れていた。その中を病院へ。受付では英語はまるでわからず、医師に説明してまた受付で300クーナ(約6000円、銀行で両替)を支払ってからやっと診察、切開はせず化膿止めの注射をして2日間様子をみることになる。前夜電子辞書で専門語を調べ紙に書き出しておいたのが役立った。なんと日本からの研修生がいて助かる。先生や看護士さんとも信頼感というか交情ができてうれしかった。とはいえ沢山の人が診察に来ていて、こちらは特別待遇。はるかに重傷の人、手術にはいるらしい患者さん、救急車で運び込まれる人など、映画をみているようだった。
 予定は変更、ホテルに延長のお願いをする。お昼過ぎやっと町へ、まずi(観光案内所)で地図と催しの案内をもらう、日本語版がある。それから中央の広場のカフェで町の雰囲気を味合う。町を歩き小高い丘から市内を眺める。魚の唐揚げ。求めた切手の美しさに感心する。コンサートは売り切れ(チョン・ミョンファン)、夕食のパスタと屋台の焼き栗は見かけ倒しだった。

7.3月 7日(火)                      泊/Palace Hotel Zagreb
 博物館巡り。ミラマ博物館、個人のコレクションだが中国の陶磁器とガラス器は見事。美術工芸博物館はまずまず。植物園は冬期閉鎖中。青空市場前の繁盛しているグリル、注文をしてからパイを焼くソーセージ包みがうまい。民俗衣装の物売り(大原女のような)の銅像があり、お上りさんらしい家族が一緒に写真を撮っていたので、こちらも撮ってもらう。
 夜、大学のホールのコンサート(ザグレブチャンバーオーケストラ)へ、モーツァルトとメンデルスゾーンの交響曲。お客は、お年寄りと演奏者の家族や知り合いのよう。みなさんの盛装がとてもいい感じだった。終演後のロビーは演奏者も入って賑やか、指揮者と目が合ったのでワンダフルと言うと向こうは「ありがとう」と言う、たった一人の東洋人は相当に目立っていたようだ。帰室22:30。

8.3月 8日(水)                      泊/Palace Hotel Zagreb
 病院へ、先日と同じく前払い。だが医者も看護婦さんも変わっていてガッカリ。腫れは少し引いて消毒だけで終わり。ともかく山は越したようでホッとする、明日出発ができると思うと元気になる。
          *以上の直接費用は帰国後請求すると、保険会社が全額支払ってくれた。7,331円。
 午後、駅でチケットの購入。民俗博物館、階段ホールに日本のおひな様が飾られていて、やはりうれしい。ショップでお土産を少し買う。中央の広場やカフェで過ごす。近代美術館は数年前の戦争の写真展だった。クロアチアは意地悪も貧しさもあったが、町は美しくやさしさも溢れていた。そして人は大きい、大股でさっそうとこちらを追い越していく姿は男女とも美しい。W杯サッカーはとても勝てそうにないと思う。深夜ホテルのカフェは、そんな町の人で賑わっていた。女性だけの連れもいた。

9.3月 9日(木)Zagreb〜Beograd/4便5~6h/セルビア・モンテネグロBeogr
 朝食時、日本のゼミ学生団体、先生の奥様がクロアチアの人で来たと言う(聞いたことがあるように思うが?)サッカーの感想を言うと同じことを感じたらしい、これから海岸地帯を見て帰るとのこと。
 9:10発、コンパートメントはセルビアに帰る中年男性とふたり、戦争に参加したとその行程を地図で語ってくれたがそこで何があったか理解する知識も言葉もない、その軍は圧倒的に強く故に国連軍の空爆を受けたのだ。彼の写真を撮る。15:30ベオグラード到着、駅前は工事中で荒れた感じ、客引きも多い。バッグを持ってのホテル探しは止めて、駅前に宿を取る、前払い。
 町へ。中心部に行く道を間違え、目の前に10年前空爆されたままのビルが出てくる、ここも道路工事中。丘陵地で坂道が多いためか、地図との照合がむつかしく以後何度も道を間違える。曇っていて寒い、中心部のホテルに明日からの予約。夕食はホテル、洗濯して9:30に寝る、ほとんど何もしないのにとても疲れた。
                               泊/Astoria Hotel

10.3月10日(金)Beograd          泊/Park Hotel
 5:30起床、朝食、8:30荷物をあずけて出発。中心部、共和国広場。建物はホテルモスクワのアールデコなど100年前のものが多く、曇天のためもあり灰色に汚れて見える。がブランド店が並ぶ再開発商店街はきれいでモダンなカフェもある。なぜかチェゲバラの顔らしいポスターがあった。すぐ近くに高い塔のセルビア正教大聖堂、壁画見事。玄関には乞食(これは信仰があつい証拠、前回のルーマニアで知る)。高台のカレメグダン公園、城跡らしくトルコ式浴場跡がある。オスマンの占領が長かった。市内を流れるサヴァ川(対岸に現代美術館)とドナゥ川との合流点、交通の要衝だ。格好いいグレイの制服を着た警備の若者を撮る。
 木造のリュビツァ妃屋敷、自治を得てこの町をトルコ式から西洋式に変えた公爵自邸、その折衷が見事。すぐ近くのカフェ、駅への途中の住宅(博物館と民芸店)など木造もわずかだが残っていて、魅力的だ。
駅でチケットを購入して、ホテルを移動。途中デモに会う、デモより多い警官に囲まれシュプレヒコールで気勢を上げていた、目の前の空爆のビルを撮ろうとしたら、その警官に止められた。笑いながらだがフィルムを没収すると言う。どちらも撮れず。あきらめて商店街を歩く、民芸店が数軒あり、多色縞模様の毛糸のセーターやスカートを年配女性が選んでいた。

11.3月11日(土)Beograd                  泊/Park Hotel
 5:30起床7:00朝食、昨日撮れなかった空爆ビルを撮りに散歩、ついでに教会や公園をまわる。帰って、自分で片付けた切手がなくなったと掃除のおばさんに文句を言うチョンボをして、謝り代わりに写真を撮って送ることにする。また外へ、民俗博物館、展示改装中で無料、田舎に行けばまだ木造住居に住んでいる人がいそうだと思えるが、聞いてみてもわからず。ショップで少し買い物。昼食は昨日の木造の店、鱒のグリルとスープ。モダンカフェも行くが、こちらは休日の若者で大変な混雑、昨日の愛想良さはない。
 時間があるので対岸の現代美術館へ、橋を渡り公園をぬけ2~3km歩く。特別展は、インターナショナルスタイル建築展(開催記念の式典があり参加者が多い、建築家や先生や学生のようだ)。もうひとつ女性が描いた女性像の展覧会、肖像や自画像や仕事する女などすべてに時代による変化が見てとれる。とても真面目でつつましいフェミニズムの展覧会。素人作品もあるらしく家族が並んで写真を撮っていたりした。常設展は、旧ユーゴの作品、ユーゴ人と名乗る人がいたという連邦国家の良い面がここにはあるように感じた。トイレの表示、男はチトー元帥(常設展にあったこの国で有名な作品)、女はウォーホールのジャクリーンの顔。観光スポットでは見れないものに出会えた、来た甲斐があった。町では自国をセルビアと呼んでいて、セルビアモンテネグロという言葉は聞かなかった。切手はユーゴの表記。
 夜テレビでミロシェビッチ元大統領が牢で死んでいたとのニュース、雨の町は静かでほっとする。後刻棺が帰ったというニュースはあったが社会問題への発展はなし、完全に過去の人なのだ。

12.3月12日(日)Beograd〜Sofia/2便8~10h/ブルガリア  泊/Maria Luiza Hotel
 7:30チェックアウト、また道を間違う(この国が一筋縄でいかないことの象徴のようだと、自分のチョンボを棚に上げる、それにしてもほんとにわかりにくい)。8:00汗びっしょりで駅到着。食べ物を購入、8:40出発。途中Nisという駅で南部行きと車両を分離して国境越え。両側に山がせまる谷間、川と道路と線路が交差して走る。周囲は雪、やがて国境、道路はトラックの大渋滞。両国のパスポートチェックと捺印。
 18:30定刻ソフィア到着(実は時差分の1時間延着していてすでに19:30だった)。両替(セルビア通貨もしてくれる)。ホテルは100を70euroに値切る、快適な部屋に満足。23:00就寝(以後1時間間違ったまま)。

13.3月13日(月)                      泊/Maria Luiza Hotel
 雪、その中を出掛ける。勝手知った町だが夏とは大きく違う。閉鎖された屋外のカフェがわびしい。だが観光客とくに若者のそれがいなくて落ち着く。国立のiはやはり親切、月曜だが民俗美術館のショップは開いていてお土産を少し買う。
 ホテルの部屋が信じられない狭い部屋に変えられ1泊だけと我慢する。夕食その後はカフェでケーキと部屋の外で過ごす。夜、エタルの千香さんに電話する、日本語が通じるのが不思議な感じがする。

14.3月14日(火)                      泊/Gloria Palace Hotel
 郊外のボヤナ寺院へ、トラム、バスと乗り継ぐうち雪が深くなる。小さな入り口外観はがっかりさせるが内部の壁画は息をのむ。出ると門番はさっさと帰って一人雪の中に残る。膝まで雪につかりながら11c部分の外観を撮る。
近くの歴史博物館に行こうとバス停に帰ると青年が案内してやると歩き出す。結局1km以上は歩いて、この先が入口だと教えると自分のバス停へとさっさと歩いて行った。大感謝。博物館は壮大、展示はオスマン時代をほとんど無視している、その影響は大きいのだからもっときちんと見るべきではないかと異邦人は考えてしまう。それ以上に窓の外の雪の眺めや食堂や働いている女性たちが面白かった。見学客は結構多い。バスで市内へ帰る。後は美術館、カフェ、商店街などをまわる。食事のピラフの盛りつけ(周囲に香草を散らして、きれい)やレバノン人の店が楽しかった。
 部屋がまた狭いままと言うので急遽別のホテルへ変わる。だだっ広いスゥートをよいことに大音量でテレビをかける。Mezzho音楽チャンネル。ドビッシーなどフランスもののピアノ、そしてソプラノ(なんと日本人の演奏家)で楽しかった。日本では考えられないテレビだとあらためて思う、同じようなラジオもある。

15.3月15日(水)Sofia〜Kazanlak/Bus          泊/Hotel Kazanlak
 8:30バス駅へ(ここで時差に気付かされる。現在は9:45で次のバスは10:30。3日間なんの不便も感じなかった)。車掌は女性、以後すべてそうだった。バスは高速道路やがて一般道に、遠回りだがこれが早いのだろう。遠くの山は雪の帽子。14:00無事カザンラク中央広場に到着。目の前のホテルに。そしてiへも。
 5月のバラ祭りには大変な観光客が訪れるこの町も、今は静か、博物館もお店も閉まっている。夕食はホテル、売店でバラオイルなどを買う。近郊のバラの谷では世界のバラのエッセンスの80%を生産すると言う。

16.3月16日(木)Kazanlak〜Gabrovo〜Etar/Bus
 8:00ホテルを出発、途中でバス駅を尋ねると、100mばかり先導して案内してくれる。バス停でも親切な人がいて、彼も同じバスに乗る。ソフィアに住んでいて仕事だと言うがカバンひとつ持っていない、どうなっているのだろう。シプカ峠を越えた所がガブロヴォの町でその郊外にSさんのいるエタル博物館がある。やがて周囲は雪、ますます深く樹氷のトンネルになる。峠は観光スポットなので、次のバスまでの間そこに降りることにした。といって一面の雪、何もできずただ眺めるだけ。そこに回送の立派な観光バスが来る。声をかけると乗せてくれる。荷物を預けたカフェにはコーヒーも飲まずに失礼する。そして2度目の町に到着。少し歩いてから昼食、そしてバスでエタルへ、そこでも親切な人が丁寧に道を教えてくれた。
 14:00ホテルへ、16:00打ち合わせの終わったSさんと2年ぶりに再会。展覧会は22日からに延期、準備のまっただ中。家で作業をしているとのことで明日会うことにして別れる。
夕食は近くのレストラン、テレビでブルガリアとイタリーのカップ戦(ソフィア)を中継していてそれを見に集まった人たちで大賑わい、2:1の勝利で大騒ぎだった。
          泊/Strannopriemnitsaストランノプリエムニツア (エタル民俗博物館内)

17.3月17日(金)
 Sさんのすすめのボジェンツァへ。ガブロボから15kmタクシー、9.20lb(700円)。どの家も屋根は自然鉄平石という600年前からの小さな村、改装の手が入ったようで外観はみな美しい。入口に詳しい看板があるので、英語部分を撮る。ゆっくり歩いても1時間で回れる。カフェの屋外のテーブル、雪が残っているのだが気持ちがいい。昼食のレストランは本格的な郷土料理で満足。ともかくゆっくりと時間を過ごして16:00の1本だけのバスでガブロボへ帰る。ユーモア美術館を見る、二度目だが展示は大きく変わっている。
 17:30その前でSさんと待ち合わせ。すぐ近くの公団アパート?の1軒を借りている。入口を入ってDKその食卓が作業台。彼女の作品については別に書くとして、展覧会のパネル150枚に写真をつける作業、5日後までにまだ大変な作業がある。ともかく150の染料(この地で見つけた草や石)それぞれに触媒7種で染め上げた糸束がある。21:00まで話しを聞きながら作業を眺める。Sさんは、仕事も人となりもすばらしい人であった。わが人を見る目はまだ狂ってないと、ひそかにうれしい。
 それから食事に。歴史博物館に並んだ木造の2階建て、郷土料理の大きな店だが満席。2軒目でやっと入れる。タンのカツ、レバー焼き、キャベツのサラダ、ナンのようなパン、Sさんは強い酒を注文。いずれもほんとにおいしかった。この町にこんな店があるとは知らなかった。楽団が入っていて歌を聴いているが、やがてお客の女性たちが立ち上がり手をつなぎテーブルの周囲を踊り出す。男性も加わってステップを踏みながら回る。とても賑やかだ。23:00になったのでタクシーをひらい千香さんを送ってからエタルのホテルに帰る。まるい月が出ている、この旅ではじめてのような気がする。ウィーン以降はお天気が悪かったのだ。シャワーも浴びずに寝る。           泊/Strannopriemnitsaストランノプリエムニツア

18.3月18日(土)Etar〜Ruse                 泊/Danube Hotel
 7:30起床、今回はまだ訪れていなかったエタル野外博物館へ、時間が早くほとんどの店(ここはパン屋鍛冶屋など伝統的店舗があり、その手工業技術を守る工芸運動でホテルもその付属設備だ)はまだ閉まっている。もう来ることはないだろうと、設立した人の想いを拝察する。 11時前にホテルを出てガブロヴォへ、Sさんに挨拶して、12:30のバスで出発、途中ベルコタルノヴォ(前回訪ねた観光名所、琴欧州の故郷)を通って、15:00国境の町ルセに到着。ホテルは改装されきれいになったがレトロモダンの良さがなくなって残念。夕食に外に出ると音楽フェスティバルが開催中とのポスター、夕食を簡単にすまして急遽ヴァイオリンソナタのコンサートへ行く。モーツアルトと現代曲、アンコールに愛のよろこびなどの名曲。思わぬ贈り物をもらった気分。ホテル食堂は貸し切りのパーティ、民族音楽で深夜まで賑やかに踊っていた。

19.3月19日(日)Ruse〜Bucuresti/ルーマニア 泊/Ibis Hotel
 午前中、ドナゥ河畔を散歩、広場でカプチーノ、トーストの昼食と時間をゆっくりと過ごしてから14:00駅へ。切符を求めホームへ、列車はもう到着していて乗る前に出国パスポートコントロール15:10発と言っていたが14:30には出発。コンパートメントは一人だけ。ドナゥを渡ってルーマニアへ。17:00ブカレスト着。駅でブルガリア紙幣は両替できず。また平価切り下げが行われ新札になっていた。グラーツで予約してもらった駅前のibis hotelへ。
 今晩アカデミア音楽堂でコンサートがあるとのパンフ、もう始まっていて前半は正教会男性合唱団、後半は現代音楽(中途で沢山の人が帰って行くのでこちらも失礼)。これまで外観しか見なかった円形のホールに入ることができ満足。音響や照明には苦労が多いようだが、彫刻などインテリアはとても豪華で来た甲斐があった。22:30帰室。
20.3月20日(月)Bucuresti 泊/Ibis Hotel
 快晴、ボトムをジーンズにして外へ。昨夜の音楽堂〜革命広場〜大学広場。逆にロマーノ広場〜ヴィクトリア広場、前回地下鉄を利用したが、今回は歩くことで駅と中心部の関係や大きさなどがわかる。午後は地下鉄で統一広場、そこから前回の木造のホテル(中庭は夏とまるで違う)、それから気に入った1724年の教会へ。番をしていたおばあさんの了解を得て室内を撮る。前回は朝のミサの時間だった。出て近くのケーキ屋さんに入っていたら、教会にいた若い女性が前を通ったので手をふると悪びれずに入って来て。ビールを頼みおかわりまでした。こちらの態度がそういう反応をさせたのだろうが、日本人は金持ちということだろう。別れて、2本とも落としたボールペンを買う。夜ニュースでイラク戦争が4年目に入ったと言う。夕食はホテル近くのファーストフード店。

21.3月21日(火)Bucuresti 泊/Ibis Hotel
 近くの中央市場へどこの国も市場はいきいきして楽しい。チーズとハムの種類と買う量の多さに驚く。農村美術館へ、衣装と民具それに木造の教会と民家を室内に移築していて楽しかった。別棟にショップ、わら人形などを求める。通りを歩いていて作曲家エネスコの博物館がありその立派さに驚く、故国の英雄なのだ。
国立コレクション博物館、東洋の陶磁器じゅうたん金工芸品に浮世絵も少し。
昼食時、みなさん立ち食いしている、レストランは高級高価しかない。観光シーズンでないことで見えることもまたある、普通の生活は意外に大変なのだ。国立美術館は今日も休み、今回も見れず。ホテルで1時間昼寝して、夕食。部屋に帰って荷造り、23:00就寝。

22 3月22日(水)
 6:00起床朝食7:15チェックアウト、バスで行くつもりだったが、空港行らしきサラリーマン氏に声をかけタクシーをシェア(5eurと5lui)。ドイツの水道技術者でモルドヴァ?に行くらしい。8:15早く着き過ぎたが、お金なくベンチで時間をつぶす。美人の女性警官が歩いている、今回の旅2年前より働く女性がどこの国でもふえたように思う。
 ウィーンの空港で久しぶりに日本人に会う。こちらと同じ年代の人がいてこれからサラエボへ経営の指導に行くとのこと、シニア海外協力隊ではなく短期間のボランティア、感心しうれしく思う。
 上海便はほぼ満席、夫婦旅行を一足先にかえるという日本人女性と、隣席の出張帰りの中国人ビジネスマン氏に上海の市内への行き方を教えてもらう。お互いほんまに下手な発音の英語だ。、
     オーストリア航空/OS790 Bucuresti 11:40〜Wien 12:20
      OS 57 Wien 13:55 〜上海 07:45(3/23)
23.3月23日(木) 上海着 07:45
 上海定刻着、入国し荷物を受け取りそのまま出国便の搭乗手続きをする。まだ3時間あるので、市内まで出掛けることにする。40$両替。時速430kmのリニアモーターカーに乗り(往復80元)、地下鉄に乗り換え少し歩いて93年以来の運河添いに立つ。そこはすっかり写真で見た通りに変化していた。ロビーまで入ってみた和平飯店とその前の商店街は昔のままだが、それ以外の様変わりは眺めているうちにだんだん悲しく、見たくなくなる。水餃子の看板があったので路地に入って注文する。大量に準備しているその包み方と大きさの揃い方に感心して写真を撮らせてもらう。味は少し濃いがうまい。
大急ぎで帰るが通関が大変な人で手間取り、アナウンス中の飛行機に謝りながら乗る。疲れた。
 全日空機の山形と名乗る機長の挨拶がなんとも面白くうれしいものだった。英中日本語、隣の学生がもうちょっと発音がうまければと言うので、言葉は通じたら充分だよと言っておいた。
全日空/     NH156 12:30〜関空 15:25
リムジン/関空〜六甲Id.  16:00〜17:00/帰宅17:30

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