ウィーン、ザグレブ、ベオグラード、ブルガリア、ブカレストの旅で思ったこと
2008年1月14日
[旅で思ったこと]
1/ウィーン旧市街の通り
着いたばかりのウィーン、住所さへわかればホテルを探すなんて簡単なことだと、せっかく位置を示してくれた地図をいらないと断って歩き出した。通りは広い道に面したところであっけなく行き止まりになっていたから、ここまでにないのがおかしい、ともう一度帰ってみたがない。通りをもう一度確認してみたが間違っていない。夜の道は尋ねることができそうな人は歩いていない、仕方なく横の道のはるか向こうに見えた別なホテルに行って尋ねることにした。住所を見てこちらが探した通りで間違いないと言う。また行ってみるが、ない。あきらめてそのホテルに戻ってお宅に泊めてよと言うと、親切にも番号を探して電話してくれた。そしてこちらが行き止まりと思ったその先に行くのだと言う。道はカギ型に横に10mほど行ったところからさらに延びている。入口にここと同じテントがかかっている、色は白だけど。ということですっかり重くなったバゲッジを引っ張って歩く。確かに言われた通りに道はあって、折れてすぐのところにホテルはあった。5分と言われた場所に1時間近くかかってしまった。
こちらが勝手に行き止まりと考えた、その常識が間違っていた。通りとは視界がひらけて続いていて、それが目に見えるものだ。誰も教えてくれたわけでもないのに、勝手にそう信じていたらしい。城下町ではガギ型に道が折れているということは知っていたが、それをはるかに越えたカギ型だったということだ。翌日地図を見るとその先に博物館があったので歩いてみることにした。
旧市街の一方通行のバス道、両側に5階建ての家が途切れなく並んで、わずかにカーブしたりして続いている。1mばかり飛び出した家もある、これは立ち退いてもらうことになっているのだと歩道をそこで行き止まりにするのではなく、わずかではあるがその家の前にも歩道をちゃんと付けて、公道が折れている。逆にひっこんだ場所もあって、公園とは言えないけれど、木があったりベンチがおいてあったりした。電車が通る広い道が横切っている場所では十字の四つ辻になるのではなく、ずれるのがむしろ普通だ。おそらく広い道は後で拡張したもので、その間を斜に走っていた道がそのような形になって残ったのだろう。と考えるとずれているのが正常ということだ。そこには建物が優先して道路があるというか、あるものは仕方がないから残せばいいという姿勢だ。
こちらの頭の中に、道路を優先して都市というものができているという発想があるようだ。いや道路を計画すれば、建物はそれに従って建て直されるものだという常識がみなぎってしまっているとでも言うか、人間の頭の中で考えられた道という発想を重視して、現実にある建物の方を壊わしたり動かしたりする、それを当然と思うように慣らされている。これは変なことかもしれない。
私の住む神戸は震災の後、都市計画という頭の中で考えたことが優先されて、町は大きく変わってしまった。せっかく残った建物や樹木も壊されたり切られたりして、つるつるぴかぴかの美しくはあるがまるで違う町になった。それは仕方がないことだと思っていたのだが、そこに住む当方の頭の中まで変えさせられていたとは気付かなかった。
2/ユーゴスラビア人
ウィーンからブルガリアに向かう途中、分割された旧ユーゴスラビアの二つの国の首都を通って行くことにした。クロアチアのザグレブは豊かで美しい町で、3月にはめずらしいという雪が降って一面の銀世界になったのだが、それでもどこかエーゲ海岸の明るい雰囲気を感じてしまう。歴史的にも西欧との関係が深かったために、20世紀になってからのユーゴ体制を精算して独立しようと言うのはごく自然な発想だっただろう。実際CNNのテレビにはすばらしい観光地としてのCMが流れている。美術館での独立時の写真展がなければ、つい10年前戦争があって人が死んだことなど思い出させるものは何もなく、人は男も女も大きくさっそうと歩いていた。
しかしクロアチア(その前にスロベニア)が独立したことは、他の地域の人たちの人種意識に大きな影響を与え、長い間入り乱れて住んでいたクロアチア人、セルビア人、アルバニア人(ムスリムが多い)はそれぞれに悲惨な目にあうことになったし、紛争は現在もまだ続いている。
旧ユーゴ現在のセルビアモンテネグロの首都ベオグラードはドナウ川を望む交通の要所にある大都市で、歴史的に多くの民族が攻防を繰り返し丘の上にはオスマンの城跡がある。ここに多いセルビアの人たちに、旧ユーゴを懐かしむ意識とそこから独立した経済的には発展した豊かな人への憎しみが重なったことは容易に類推できる。
そこで起こった残された領土に住む違う民族の人たちへの激しい対応は、ニュースで知っている通りだ。それは国連軍の空爆を呼び、それによって壊れた建物は10年後の今もそのまま残っていて、どこか暗い陰鬱な印象だ。駅で会った日本の若い旅行者は、ここは観光にはまだ早かったと言う、なるほどうまい言い方だと思ったが、こちらは観光に早い遅いがあるという見方に賛成はしない。むしろ未整備な現在に訪れたことは悪くなかった。伝統的な木造の建物があちこちに残っているし、現代美術館ではユーゴという連邦国家の良い面を見ることができたし、切手はユーゴという表記のままだった。
そして何より、こちらの目からセルビア、クロアチアあるいはアルバニアの人を見分けることはできなかった。貧しそうな人や背の低い人もいたがそれは個人の差で、みなさん見事に白人だ。それはこちらを見て中国人だ中国人だと言われるのと同じで、外から見て民族はわからない。中国も韓国も日本も、同じようなものなのだ。
ともかく愛国心というものは強くなり過ぎると一人一人の自由さをうばい周囲に悪い影響を及ぼすことになる。そういうマイナスの面を心しておかねばならない。すでに国民国家という方式はもう時代遅れのシステムということになっているのだから。失敗したとはいえ、ユーゴという国が試みた実験、特に「私はユーゴ人」という人たちがいたことは忘れたくないものだと思う。彼等はそのために余分な苦労をしたことになっただろうと思うのだが。
*現代美術館のトイレの男女標示
3/ブルガリアの染色(Sさんのこと)
今回の旅はこの4月で任期を終えた青年海外協力隊のSさんに会うのが、目的と言えばいえるものだった。失われたブルガリアの染色の技法を復活するという2年間の活動の成果を見せてもらうためだ。といって2年前たまたま訪れた民俗博物館で声をかけられて小1時間話をしただけ。旅で知り合った方と関係が続くのはありがたいことだが、思い出してみると彼女のことはほとんど何も知らない、そんな人を訪ねて野を越え山越えはるばる出掛けるのはやはり相当に酔狂だ。雪の峠、霧氷のトンネルをくぐって走るバスの中でそう思った。
到着して電話すると、展覧会は開催が22日からと遅れ、それを前にした忙しい最中。だが翌日その作業場にお邪魔して作品を見せていただくことになった。案内されたのは高層公団住宅の2DKの仕事場兼住宅。玄関を入ってすぐの食卓で、展覧会のためのパネル制作中。
染められた毛糸の束が、直染めのものとそれにミョウバンや灰などの触媒を使ったもの8種類がすでにひとまとめにして白い紙に貼ってある、それが150。触媒はすべて同じものを使っているので、比較できるし後で誰でもが制作できると言う。これに材料になった草花や茸また鉱物などの写真を張り付けている。同じ材料から染められた8種類は、どこか似ているというかハーモニーがあってまるで虹のよう、つまり150の虹がテーブルの上に溢れている。それは草木染めのイメージをはるかに越えて、鮮やかな色や濃い色もある。これだけ違いのある虹を、人間は想像だけでは作ることはできない。
展覧会は、その写真パネルが壁に並び、中央のテーブルに大きな毛糸の束をいくつか並べると言う。同時にその方法をまとめたブルガリア語と英語の本が出版される。それらは色にあふれて美しくはあるが、染色家個人の作品を誇示するものではない。むしろ個人は背景にさがって、ブルガリアの自然の見事な造形を見せるものになっている。これは芸術家のセンスと技術師としての良心の両方がないとできない作業だ。しかもその写真パネルはエタル民俗博物館の収蔵品となって、以後誰でもが利用できるようになると、当然のことでしょうという感じで説明してくれた。
傍にあったポートフォリオを見ると、日本では染色家として各地での個展など作品を発表していて、このような技術を広める活動の才能があるなど想像できない。なぜここに来たのか、これまでのことなどを聞く。フィンランドへの留学経験があって大きな影響を与えているようで、そのコリ地方への旅をすすめられた。
そんな話しをしていて3時間が過ぎたが3月の終わりでもまだ寒い。全館暖房の設備はあるが、現体制になって光熱費が高騰して払えない人がいてストップしたまま、オイルヒーターをテーブルの下に置いて毛布をかけこたつのようにして暖をとった。いい機会だからと住まいも見せてもらったが、キッチンは流しと調理台だけ。レンジは吹きさらしのテラスにある、さすがに耐えられず、窓をつける改造がされている。道理で多くの住宅がそうしている訳だと教えられる。おそらく民家でかまどが居間とは別室の土間にあり、室内にはパントリーがあるという伝統が、こんなところに顔を出しているのだろうし、それは事故を防ぐ切実な方法でもあったのだろう。真冬にはシャワーのお湯が流しのところで凍ってしまってさすがに参ったとのこと。そういう厳寒の地方なのだ。
出掛けた町の中心部にあるレストランは大勢の人が週末の食事を楽しんでいた。民族音楽の演奏のある郷土料理のお店。中央に20名ばかりのグループがいたが、やがて女性たちが立ち上がり手をつないで踊りだす男性もその輪の中に次々と入る、フォークダンスだ。もう真夜中、こちらはさすがに引き上げることにする。
展覧会までいることはできないので、翌日、博物館内の会場だけを確認して引き上げた。でも来た甲斐があったと満足している。本はあらためて日本訳でも出したいと言うが、それが手にできればと願っている。2年間の青年海外協力隊としては理想的な活動だったように思う。彼女は既にまるで違う生活をスタートさせている。
*展覧会の準備作業
ブルガリアの旅・費用、ホテル代など
2008年1月14日
[1]運賃など/エアーリンク支払い
航空券など/航空券¥72,000 *冬のヨーロッパは燃料アップ分を加えても安い。
関空施設使用2,650 航空保険超過負担3,600 燃料チャージ13,000
中国空港建設3,000 Au旅客保安税1,200 Au空港サービス2,100
Ro出国2,00 Ro保安1,500 旅行保険11,240/合計112,290円
*病院の直接費用は、旅行保険にて請求額通り支払ってくれた。7,331円(06.04.11)
[2]列車運賃(円換算)
Wien〜Graz27.80(3,920円)、Graz〜Zagreb36.50(5,146円)、
Zagreb〜Beograd 140.60(2,728円)、
Beograd〜Sofia 1,041(1,715円).、
Sofia〜Kazanlak(bus) 15.03(1,125円)、Kazanlak〜Gabrovo(bus)
Gabrovo〜Ruse (bus) 8.00(600円)、Ruse〜Budapest 16.68(1,251円)
[3]ホテル代/ *少しだけきちんとしたホテルを選ぶようになった、やはり歳かなぁ?
前回インターネットが普及してホテルの予約のやり方が変化していることに気付いた。また一度行ったことのある場所が多く都市の雰囲気もわかっている。Wienは泊まるだけだから安い方に、Grazは駅前のIbis、最後のBucurestiはやはり駅前のIbisにして、これだけは予約を入れておくことにする。他は日取りが変わるから予約はできないが、観光シーズンではないから当日で充分だろう、旧ユーゴの2都市は飛び込みのつもり。ということで予定は決めた。
*Ibis Hotelは欧州最大のホテルチェーン、場所がよく安価で清潔なので、結構利用している。
1.3月 1日(水)Wien/Altstadt Hotel 99eur/14,026円
2.3月 2日(木)Wien/Altstadt Hotel 99eur/14,221
3.3月 3日(金)Graz/Ibis Hotel
4.3月 4日(土)Graz/Ibis Hotel 142eur/20,398.(10,199/日)
5.3月 5日(日)Zagreb/Palace Hotel Zagreb
6.3月 6日(月)Zagreb/Palace Hotel Zagreb
7.3月 7日(火) /Palace Hotel Zagreb
8.3月 8日(水) /Palace Hotel Zagreb 3303kunaクーナ/64,652円
うち宿泊3080kuna/60,287円(15,072/日)
9.3月 9日(木)Beograd/Astoria Hotel 2,500csd/4,118.
10.3月10日(金)Beograd/Park Hotel
11.3月11日(土)Beograd/Park Hotel 12,240csd/20,251.(10,125)
12.3月12日(日)Sofia/Maria Luiza Hotel
13.3月13日(月) /Maria Luiza Hotel 163eur/23,596(11,798)
14.3月14日(火) /Gloria Palace Hotel 196bgn/14,497円.
15.3月15日(水)Kazanlak/Hotel Kazanlak 42bgn/3,027円
16.3月16日(木)Gabrovo〜Etar/Strannopriemnitsaストランノプリエムニツア
17.3月17日(金) /Strannopriemnitsaストランノプリエムニツア 60.bgn/4,326円
18.3月18日(土)Ruse/Danube Hotel 130.00bgn(66.46eur)/9,559円
19.3月19日(日)Bucuresti/Ibis Hotel
20.3月20日(月)Bucuresti /Ibis Hotel
21.3月21日(火)Bucuresti /Ibis Hotel 863.76(244eur)/35,056円(11,685/日)
合計/222,521円(21泊)・1泊あたり/10,596円
ウィーン、ザグレブ、ベオグラード、ブルガリア、ブカレスト0603
2008年1月13日
クロアチア~イタリアの旅に出る前に、2年前の旅を紹介します。
Wien〜Bulgaria〜Bucuresti/
200603
旅の前に
今回はまだ寒い時期にヨーロッパに行く。2年前ブルガリアで会った海外青年協力隊のSさんが任期をこの春で終えるのでその成果を現地で見せてもらうことにした。失われた染めの技術を復元したのだ。なにより旅で偶然知り合った方との関係が続いていくことはうれしい。といって1時間足らず話しただけで、その才能や能力はもちろん履歴も性格も知らない人をはるばる訪ねて行くのだから相当に酔狂だ。それにまだ雪が残る地に出掛けるのは不安でもある。
情報がないので観光シーズンでない時期に予定通りに行けるかどうかよくわからない。とはいえ,初めての国も訪れながら行くことにした。
前回インターネットが普及してホテルの予約のやり方が変化していることに気付いた。また一度行ったことのある場所が多く都市の雰囲気もわかっている。Wienは泊まるだけだから安い方に、Grazは駅前のIbis、最後のBucurestiはやはり駅前のIbisにして、これだけは予約を入れておくことにする。他は日取りが変わるから予約はできないが、観光シーズンではないから当日で充分だろう、fg旧ユーゴの2都市は飛び込みのつもり。ということで予定は決めた。
1.3月 1日(水)リムジン/六甲Id〜関空 7:33〜8:30
全日空/ NH159 KIX 10:00〜北京 12:20
オーストリア航空/OS 64 北京 14:45〜Wien 18:15
ウィーン発着が便利だがオーストリア航空が関空への寄港を中止した代わりの中国経由の便、北京の空港はトランジットが面倒で、いったん入国させてから出国と客を結構な距離歩かさせてくれる。
ウィーンは残雪がここかしこ。予約していた安ホテルはカードの番号を知らせないからキャンセルという驚くべき事態。勝手知った町だが紹介されたホテルがわからず1時間歩き回って(通りすがりのお兄さん、別のホテルのおじさんの親切もあって、やっと)落ち着いたのは午後10時過ぎ、さすが疲れる。
泊/Altstadt Hotel
2.3月 2日(木)Wien
遅い朝食お年寄りが多い、どこの国もそういう旅行者が目立つ。まず目の前のミュージアムQへ、現代美術館、建築美術館とハシゴ。お昼もそこで済ます。それからシュテファン寺院からロースハウス、マジョリカハウス(二川さんのカレンダーをなどる)。公園では屋外スケート場があり大変な賑わい、やはり北国だ。
早い夕食をして、部屋で過ごす。Mezzhoというテレビチャンネルがあり(フランスのもらしい)、クラッシクの演奏(深夜にはジャズ)を途中でカットしたり説明を加えずにきちんと流す。
泊/Altstadt Hotel (帰国後名前を調べると、旧市街という意味。いいホテルだった)
*どこの国でも首都のホテル代は、100eurするようだ。100$ではもうむつかしい?
3.3月 3日(金)Wien〜Graz 泊/Ibis Hotel
最初の夜迷った道を歩いてみようと、その先にあるオーストリア民俗博物館へ行く。通りはカーブしたり交差点で5~10mくらいずれたり建物が1m出っ張っていたり、道に対するこちらの常識が現実ではない。
その博物館、1階は型通りだが、2階が子供の生活を見せる展示で低学年の子供たちが授業で来ていた。半分が自国の昔の生活で、残りが中国のそれ、人形や玩具や生活のビデオまでそろえられていた。この年代から自分たちと違う人がいて同じような生活をしていることを勉強している。日本の展示でないのを残念に思ったが、彼等にとって今いちばんの異邦人は中国人だろうと、なんだかとても感心した。こちらはこの国の「なまはげ」お面を撮らせてもらった(どこの国にもこういう風習はあるようだ)。
午後の電車でグラーツへ2回目、駅前の同じホテル。天候は悪くなって雨まじり。トラムで中心部へ。
また新設のヒトデのような美術館を川の傍で発見、夜景を撮る。駅の改造も終わっていて夕食とお茶。
4.3月 4日(土)Graz 泊/Ibis Hotel
最初に前回入れなかった大学の温室へ、雪の中から這い出した幼虫のようなデザイン。勝手に入れとあり母子の先客がいた。小さいがいい感じ。スープの昼食をすましてから、新設の美術館、クンストハウスグラーツへ。女性2人の特別展は楽しかったが、建築は外観優先が目立っで少しガッカリ。(昨年、日本の現代美術「ちかく展」も紹介している)。また、これも新しい川の中の建造物を見る。それぞれまるで違うが共通点もある「どこか生き物みたい」ように思う。住宅のたたずまいを含め、古くて新しい好きな町だ。
夕食は別のホテルの食堂、すっかり気に入った駅のカフェで過ごす。
5.3月 5日(日)Graz8:30〜Zagreb12:30/クロアチア 泊/Palace Hotel Zagreb
5:30目覚めると雪、窓の外がみるみる白くなっていく。8:00ホームでウィーンからの列車を待つ。銀世界の中を峠に向かって走り、スロベニアに入国出国して少し高度がさがってクロアチア、みぞれのザグレブに着く。駅近くのホテルの部屋は広い緑地に面した4階ツイン気持ちいい。だが、出発前階段ですりむいた傷が化膿して痛く、明日病院に行くことに。雪がひどくなりどこにも行けず、夕食もホテル。
6.3月 6日(月)Zagreb 泊/Palace Hotel Zagreb
朝、積雪は20cmくらいか、公園で木が倒れていた。その中を病院へ。受付では英語はまるでわからず、医師に説明してまた受付で300クーナ(約6000円、銀行で両替)を支払ってからやっと診察、切開はせず化膿止めの注射をして2日間様子をみることになる。前夜電子辞書で専門語を調べ紙に書き出しておいたのが役立った。なんと日本からの研修生がいて助かる。先生や看護士さんとも信頼感というか交情ができてうれしかった。とはいえ沢山の人が診察に来ていて、こちらは特別待遇。はるかに重傷の人、手術にはいるらしい患者さん、救急車で運び込まれる人など、映画をみているようだった。
予定は変更、ホテルに延長のお願いをする。お昼過ぎやっと町へ、まずi(観光案内所)で地図と催しの案内をもらう、日本語版がある。それから中央の広場のカフェで町の雰囲気を味合う。町を歩き小高い丘から市内を眺める。魚の唐揚げ。求めた切手の美しさに感心する。コンサートは売り切れ(チョン・ミョンファン)、夕食のパスタと屋台の焼き栗は見かけ倒しだった。
7.3月 7日(火) 泊/Palace Hotel Zagreb
博物館巡り。ミラマ博物館、個人のコレクションだが中国の陶磁器とガラス器は見事。美術工芸博物館はまずまず。植物園は冬期閉鎖中。青空市場前の繁盛しているグリル、注文をしてからパイを焼くソーセージ包みがうまい。民俗衣装の物売り(大原女のような)の銅像があり、お上りさんらしい家族が一緒に写真を撮っていたので、こちらも撮ってもらう。
夜、大学のホールのコンサート(ザグレブチャンバーオーケストラ)へ、モーツァルトとメンデルスゾーンの交響曲。お客は、お年寄りと演奏者の家族や知り合いのよう。みなさんの盛装がとてもいい感じだった。終演後のロビーは演奏者も入って賑やか、指揮者と目が合ったのでワンダフルと言うと向こうは「ありがとう」と言う、たった一人の東洋人は相当に目立っていたようだ。帰室22:30。
8.3月 8日(水) 泊/Palace Hotel Zagreb
病院へ、先日と同じく前払い。だが医者も看護婦さんも変わっていてガッカリ。腫れは少し引いて消毒だけで終わり。ともかく山は越したようでホッとする、明日出発ができると思うと元気になる。
*以上の直接費用は帰国後請求すると、保険会社が全額支払ってくれた。7,331円。
午後、駅でチケットの購入。民俗博物館、階段ホールに日本のおひな様が飾られていて、やはりうれしい。ショップでお土産を少し買う。中央の広場やカフェで過ごす。近代美術館は数年前の戦争の写真展だった。クロアチアは意地悪も貧しさもあったが、町は美しくやさしさも溢れていた。そして人は大きい、大股でさっそうとこちらを追い越していく姿は男女とも美しい。W杯サッカーはとても勝てそうにないと思う。深夜ホテルのカフェは、そんな町の人で賑わっていた。女性だけの連れもいた。
9.3月 9日(木)Zagreb〜Beograd/4便5~6h/セルビア・モンテネグロBeogr
朝食時、日本のゼミ学生団体、先生の奥様がクロアチアの人で来たと言う(聞いたことがあるように思うが?)サッカーの感想を言うと同じことを感じたらしい、これから海岸地帯を見て帰るとのこと。
9:10発、コンパートメントはセルビアに帰る中年男性とふたり、戦争に参加したとその行程を地図で語ってくれたがそこで何があったか理解する知識も言葉もない、その軍は圧倒的に強く故に国連軍の空爆を受けたのだ。彼の写真を撮る。15:30ベオグラード到着、駅前は工事中で荒れた感じ、客引きも多い。バッグを持ってのホテル探しは止めて、駅前に宿を取る、前払い。
町へ。中心部に行く道を間違え、目の前に10年前空爆されたままのビルが出てくる、ここも道路工事中。丘陵地で坂道が多いためか、地図との照合がむつかしく以後何度も道を間違える。曇っていて寒い、中心部のホテルに明日からの予約。夕食はホテル、洗濯して9:30に寝る、ほとんど何もしないのにとても疲れた。
泊/Astoria Hotel
10.3月10日(金)Beograd 泊/Park Hotel
5:30起床、朝食、8:30荷物をあずけて出発。中心部、共和国広場。建物はホテルモスクワのアールデコなど100年前のものが多く、曇天のためもあり灰色に汚れて見える。がブランド店が並ぶ再開発商店街はきれいでモダンなカフェもある。なぜかチェゲバラの顔らしいポスターがあった。すぐ近くに高い塔のセルビア正教大聖堂、壁画見事。玄関には乞食(これは信仰があつい証拠、前回のルーマニアで知る)。高台のカレメグダン公園、城跡らしくトルコ式浴場跡がある。オスマンの占領が長かった。市内を流れるサヴァ川(対岸に現代美術館)とドナゥ川との合流点、交通の要衝だ。格好いいグレイの制服を着た警備の若者を撮る。
木造のリュビツァ妃屋敷、自治を得てこの町をトルコ式から西洋式に変えた公爵自邸、その折衷が見事。すぐ近くのカフェ、駅への途中の住宅(博物館と民芸店)など木造もわずかだが残っていて、魅力的だ。
駅でチケットを購入して、ホテルを移動。途中デモに会う、デモより多い警官に囲まれシュプレヒコールで気勢を上げていた、目の前の空爆のビルを撮ろうとしたら、その警官に止められた。笑いながらだがフィルムを没収すると言う。どちらも撮れず。あきらめて商店街を歩く、民芸店が数軒あり、多色縞模様の毛糸のセーターやスカートを年配女性が選んでいた。
11.3月11日(土)Beograd 泊/Park Hotel
5:30起床7:00朝食、昨日撮れなかった空爆ビルを撮りに散歩、ついでに教会や公園をまわる。帰って、自分で片付けた切手がなくなったと掃除のおばさんに文句を言うチョンボをして、謝り代わりに写真を撮って送ることにする。また外へ、民俗博物館、展示改装中で無料、田舎に行けばまだ木造住居に住んでいる人がいそうだと思えるが、聞いてみてもわからず。ショップで少し買い物。昼食は昨日の木造の店、鱒のグリルとスープ。モダンカフェも行くが、こちらは休日の若者で大変な混雑、昨日の愛想良さはない。
時間があるので対岸の現代美術館へ、橋を渡り公園をぬけ2~3km歩く。特別展は、インターナショナルスタイル建築展(開催記念の式典があり参加者が多い、建築家や先生や学生のようだ)。もうひとつ女性が描いた女性像の展覧会、肖像や自画像や仕事する女などすべてに時代による変化が見てとれる。とても真面目でつつましいフェミニズムの展覧会。素人作品もあるらしく家族が並んで写真を撮っていたりした。常設展は、旧ユーゴの作品、ユーゴ人と名乗る人がいたという連邦国家の良い面がここにはあるように感じた。トイレの表示、男はチトー元帥(常設展にあったこの国で有名な作品)、女はウォーホールのジャクリーンの顔。観光スポットでは見れないものに出会えた、来た甲斐があった。町では自国をセルビアと呼んでいて、セルビアモンテネグロという言葉は聞かなかった。切手はユーゴの表記。
夜テレビでミロシェビッチ元大統領が牢で死んでいたとのニュース、雨の町は静かでほっとする。後刻棺が帰ったというニュースはあったが社会問題への発展はなし、完全に過去の人なのだ。
12.3月12日(日)Beograd〜Sofia/2便8~10h/ブルガリア 泊/Maria Luiza Hotel
7:30チェックアウト、また道を間違う(この国が一筋縄でいかないことの象徴のようだと、自分のチョンボを棚に上げる、それにしてもほんとにわかりにくい)。8:00汗びっしょりで駅到着。食べ物を購入、8:40出発。途中Nisという駅で南部行きと車両を分離して国境越え。両側に山がせまる谷間、川と道路と線路が交差して走る。周囲は雪、やがて国境、道路はトラックの大渋滞。両国のパスポートチェックと捺印。
18:30定刻ソフィア到着(実は時差分の1時間延着していてすでに19:30だった)。両替(セルビア通貨もしてくれる)。ホテルは100を70euroに値切る、快適な部屋に満足。23:00就寝(以後1時間間違ったまま)。
13.3月13日(月) 泊/Maria Luiza Hotel
雪、その中を出掛ける。勝手知った町だが夏とは大きく違う。閉鎖された屋外のカフェがわびしい。だが観光客とくに若者のそれがいなくて落ち着く。国立のiはやはり親切、月曜だが民俗美術館のショップは開いていてお土産を少し買う。
ホテルの部屋が信じられない狭い部屋に変えられ1泊だけと我慢する。夕食その後はカフェでケーキと部屋の外で過ごす。夜、エタルの千香さんに電話する、日本語が通じるのが不思議な感じがする。
14.3月14日(火) 泊/Gloria Palace Hotel
郊外のボヤナ寺院へ、トラム、バスと乗り継ぐうち雪が深くなる。小さな入り口外観はがっかりさせるが内部の壁画は息をのむ。出ると門番はさっさと帰って一人雪の中に残る。膝まで雪につかりながら11c部分の外観を撮る。
近くの歴史博物館に行こうとバス停に帰ると青年が案内してやると歩き出す。結局1km以上は歩いて、この先が入口だと教えると自分のバス停へとさっさと歩いて行った。大感謝。博物館は壮大、展示はオスマン時代をほとんど無視している、その影響は大きいのだからもっときちんと見るべきではないかと異邦人は考えてしまう。それ以上に窓の外の雪の眺めや食堂や働いている女性たちが面白かった。見学客は結構多い。バスで市内へ帰る。後は美術館、カフェ、商店街などをまわる。食事のピラフの盛りつけ(周囲に香草を散らして、きれい)やレバノン人の店が楽しかった。
部屋がまた狭いままと言うので急遽別のホテルへ変わる。だだっ広いスゥートをよいことに大音量でテレビをかける。Mezzho音楽チャンネル。ドビッシーなどフランスもののピアノ、そしてソプラノ(なんと日本人の演奏家)で楽しかった。日本では考えられないテレビだとあらためて思う、同じようなラジオもある。
15.3月15日(水)Sofia〜Kazanlak/Bus 泊/Hotel Kazanlak
8:30バス駅へ(ここで時差に気付かされる。現在は9:45で次のバスは10:30。3日間なんの不便も感じなかった)。車掌は女性、以後すべてそうだった。バスは高速道路やがて一般道に、遠回りだがこれが早いのだろう。遠くの山は雪の帽子。14:00無事カザンラク中央広場に到着。目の前のホテルに。そしてiへも。
5月のバラ祭りには大変な観光客が訪れるこの町も、今は静か、博物館もお店も閉まっている。夕食はホテル、売店でバラオイルなどを買う。近郊のバラの谷では世界のバラのエッセンスの80%を生産すると言う。
16.3月16日(木)Kazanlak〜Gabrovo〜Etar/Bus
8:00ホテルを出発、途中でバス駅を尋ねると、100mばかり先導して案内してくれる。バス停でも親切な人がいて、彼も同じバスに乗る。ソフィアに住んでいて仕事だと言うがカバンひとつ持っていない、どうなっているのだろう。シプカ峠を越えた所がガブロヴォの町でその郊外にSさんのいるエタル博物館がある。やがて周囲は雪、ますます深く樹氷のトンネルになる。峠は観光スポットなので、次のバスまでの間そこに降りることにした。といって一面の雪、何もできずただ眺めるだけ。そこに回送の立派な観光バスが来る。声をかけると乗せてくれる。荷物を預けたカフェにはコーヒーも飲まずに失礼する。そして2度目の町に到着。少し歩いてから昼食、そしてバスでエタルへ、そこでも親切な人が丁寧に道を教えてくれた。
14:00ホテルへ、16:00打ち合わせの終わったSさんと2年ぶりに再会。展覧会は22日からに延期、準備のまっただ中。家で作業をしているとのことで明日会うことにして別れる。
夕食は近くのレストラン、テレビでブルガリアとイタリーのカップ戦(ソフィア)を中継していてそれを見に集まった人たちで大賑わい、2:1の勝利で大騒ぎだった。
泊/Strannopriemnitsaストランノプリエムニツア (エタル民俗博物館内)
17.3月17日(金)
Sさんのすすめのボジェンツァへ。ガブロボから15kmタクシー、9.20lb(700円)。どの家も屋根は自然鉄平石という600年前からの小さな村、改装の手が入ったようで外観はみな美しい。入口に詳しい看板があるので、英語部分を撮る。ゆっくり歩いても1時間で回れる。カフェの屋外のテーブル、雪が残っているのだが気持ちがいい。昼食のレストランは本格的な郷土料理で満足。ともかくゆっくりと時間を過ごして16:00の1本だけのバスでガブロボへ帰る。ユーモア美術館を見る、二度目だが展示は大きく変わっている。
17:30その前でSさんと待ち合わせ。すぐ近くの公団アパート?の1軒を借りている。入口を入ってDKその食卓が作業台。彼女の作品については別に書くとして、展覧会のパネル150枚に写真をつける作業、5日後までにまだ大変な作業がある。ともかく150の染料(この地で見つけた草や石)それぞれに触媒7種で染め上げた糸束がある。21:00まで話しを聞きながら作業を眺める。Sさんは、仕事も人となりもすばらしい人であった。わが人を見る目はまだ狂ってないと、ひそかにうれしい。
それから食事に。歴史博物館に並んだ木造の2階建て、郷土料理の大きな店だが満席。2軒目でやっと入れる。タンのカツ、レバー焼き、キャベツのサラダ、ナンのようなパン、Sさんは強い酒を注文。いずれもほんとにおいしかった。この町にこんな店があるとは知らなかった。楽団が入っていて歌を聴いているが、やがてお客の女性たちが立ち上がり手をつなぎテーブルの周囲を踊り出す。男性も加わってステップを踏みながら回る。とても賑やかだ。23:00になったのでタクシーをひらい千香さんを送ってからエタルのホテルに帰る。まるい月が出ている、この旅ではじめてのような気がする。ウィーン以降はお天気が悪かったのだ。シャワーも浴びずに寝る。 泊/Strannopriemnitsaストランノプリエムニツア
18.3月18日(土)Etar〜Ruse 泊/Danube Hotel
7:30起床、今回はまだ訪れていなかったエタル野外博物館へ、時間が早くほとんどの店(ここはパン屋鍛冶屋など伝統的店舗があり、その手工業技術を守る工芸運動でホテルもその付属設備だ)はまだ閉まっている。もう来ることはないだろうと、設立した人の想いを拝察する。 11時前にホテルを出てガブロヴォへ、Sさんに挨拶して、12:30のバスで出発、途中ベルコタルノヴォ(前回訪ねた観光名所、琴欧州の故郷)を通って、15:00国境の町ルセに到着。ホテルは改装されきれいになったがレトロモダンの良さがなくなって残念。夕食に外に出ると音楽フェスティバルが開催中とのポスター、夕食を簡単にすまして急遽ヴァイオリンソナタのコンサートへ行く。モーツアルトと現代曲、アンコールに愛のよろこびなどの名曲。思わぬ贈り物をもらった気分。ホテル食堂は貸し切りのパーティ、民族音楽で深夜まで賑やかに踊っていた。
19.3月19日(日)Ruse〜Bucuresti/ルーマニア 泊/Ibis Hotel
午前中、ドナゥ河畔を散歩、広場でカプチーノ、トーストの昼食と時間をゆっくりと過ごしてから14:00駅へ。切符を求めホームへ、列車はもう到着していて乗る前に出国パスポートコントロール15:10発と言っていたが14:30には出発。コンパートメントは一人だけ。ドナゥを渡ってルーマニアへ。17:00ブカレスト着。駅でブルガリア紙幣は両替できず。また平価切り下げが行われ新札になっていた。グラーツで予約してもらった駅前のibis hotelへ。
今晩アカデミア音楽堂でコンサートがあるとのパンフ、もう始まっていて前半は正教会男性合唱団、後半は現代音楽(中途で沢山の人が帰って行くのでこちらも失礼)。これまで外観しか見なかった円形のホールに入ることができ満足。音響や照明には苦労が多いようだが、彫刻などインテリアはとても豪華で来た甲斐があった。22:30帰室。
20.3月20日(月)Bucuresti 泊/Ibis Hotel
快晴、ボトムをジーンズにして外へ。昨夜の音楽堂〜革命広場〜大学広場。逆にロマーノ広場〜ヴィクトリア広場、前回地下鉄を利用したが、今回は歩くことで駅と中心部の関係や大きさなどがわかる。午後は地下鉄で統一広場、そこから前回の木造のホテル(中庭は夏とまるで違う)、それから気に入った1724年の教会へ。番をしていたおばあさんの了解を得て室内を撮る。前回は朝のミサの時間だった。出て近くのケーキ屋さんに入っていたら、教会にいた若い女性が前を通ったので手をふると悪びれずに入って来て。ビールを頼みおかわりまでした。こちらの態度がそういう反応をさせたのだろうが、日本人は金持ちということだろう。別れて、2本とも落としたボールペンを買う。夜ニュースでイラク戦争が4年目に入ったと言う。夕食はホテル近くのファーストフード店。
21.3月21日(火)Bucuresti 泊/Ibis Hotel
近くの中央市場へどこの国も市場はいきいきして楽しい。チーズとハムの種類と買う量の多さに驚く。農村美術館へ、衣装と民具それに木造の教会と民家を室内に移築していて楽しかった。別棟にショップ、わら人形などを求める。通りを歩いていて作曲家エネスコの博物館がありその立派さに驚く、故国の英雄なのだ。
国立コレクション博物館、東洋の陶磁器じゅうたん金工芸品に浮世絵も少し。
昼食時、みなさん立ち食いしている、レストランは高級高価しかない。観光シーズンでないことで見えることもまたある、普通の生活は意外に大変なのだ。国立美術館は今日も休み、今回も見れず。ホテルで1時間昼寝して、夕食。部屋に帰って荷造り、23:00就寝。
22 3月22日(水)
6:00起床朝食7:15チェックアウト、バスで行くつもりだったが、空港行らしきサラリーマン氏に声をかけタクシーをシェア(5eurと5lui)。ドイツの水道技術者でモルドヴァ?に行くらしい。8:15早く着き過ぎたが、お金なくベンチで時間をつぶす。美人の女性警官が歩いている、今回の旅2年前より働く女性がどこの国でもふえたように思う。
ウィーンの空港で久しぶりに日本人に会う。こちらと同じ年代の人がいてこれからサラエボへ経営の指導に行くとのこと、シニア海外協力隊ではなく短期間のボランティア、感心しうれしく思う。
上海便はほぼ満席、夫婦旅行を一足先にかえるという日本人女性と、隣席の出張帰りの中国人ビジネスマン氏に上海の市内への行き方を教えてもらう。お互いほんまに下手な発音の英語だ。、
オーストリア航空/OS790 Bucuresti 11:40〜Wien 12:20
OS 57 Wien 13:55 〜上海 07:45(3/23)
23.3月23日(木) 上海着 07:45
上海定刻着、入国し荷物を受け取りそのまま出国便の搭乗手続きをする。まだ3時間あるので、市内まで出掛けることにする。40$両替。時速430kmのリニアモーターカーに乗り(往復80元)、地下鉄に乗り換え少し歩いて93年以来の運河添いに立つ。そこはすっかり写真で見た通りに変化していた。ロビーまで入ってみた和平飯店とその前の商店街は昔のままだが、それ以外の様変わりは眺めているうちにだんだん悲しく、見たくなくなる。水餃子の看板があったので路地に入って注文する。大量に準備しているその包み方と大きさの揃い方に感心して写真を撮らせてもらう。味は少し濃いがうまい。
大急ぎで帰るが通関が大変な人で手間取り、アナウンス中の飛行機に謝りながら乗る。疲れた。
全日空機の山形と名乗る機長の挨拶がなんとも面白くうれしいものだった。英中日本語、隣の学生がもうちょっと発音がうまければと言うので、言葉は通じたら充分だよと言っておいた。
全日空/ NH156 12:30〜関空 15:25
リムジン/関空〜六甲Id. 16:00〜17:00/帰宅17:30
屋久島の旅で思ったこと
2007年12月9日
1. 屋久杉の森
3,000年いや7,200年という説もあるらしい縄文杉を見に行ったのだが、同時に10年いや生まれたばかりの杉もそこにはあった。自然を見るのだから当然のことだがそれは常に生まれ変わっている。その生きているさまや再生していく状況を見ることができる。世界自然遺産ではあるが、遺産ではなく存続している状態、ヤクスギランドでも自然館でも環境文化村センターでもそれは当然のように解説され展示されている。でも、これは屋久島ならではの相当に稀有なことなのではなかろうか。
江戸時代のあのような伐採、切り株や倒木をそのまま放置した森は亜熱帯で雨の多いこの島でなかったら、荒れ果ててレバノンや黄河流域のようになっていたに違いない。しかしここでは倒木や切り株には緑の苔が生えてアニメのように美しいし、それが栄養たっぷりの苗床になって2代目3代目の樹木を生育させている。木を切ったことはなんらとがめられることなく、自然の変化と同じように認められ、つつがない歴史として続いている。そこには人間が生まれて死んでいくのとまるで同じように考えられ、何の疑問もそこにはないようだ。屋久島の人と同じように、観光に来た人も同じ感想を持ち帰っていく。
マレーシア、クアラルンプールの郊外に植民地時代にイギリスが作った植物園がある。地上から10~20mの高さに空中通路があって熱帯雨林を上から見ることができるのだが、そこで次のような説明をされた。「前後で森の高さが違うでしょう。人間が一度でも手を加えた森は、原生林に比べて7割の高さにしか回復しません。そこで成長が止まってしまいます。だから原生林に手を加えてはいけないのです。」その時は大変に納得をしたのだが、屋久島を見た今は少し見方が変わっている。原生林だって自然倒木はあるだろうから、常に再生している筈だ。だとすれば、それは伐採の量と頻度の問題だろう。その許容量を越えた森は、以前よりやせ、また限界点を越えると枯れ果てて荒地になるだろう。
屋久島の森が、江戸時代伐採を始めた時と比較して、低く弱々しいものになっているか、あるいは変わらない太古の昔からの状況にあるのか、私たちはもっと慎重になっていいのかもしれない。いや屋久島の外では、すでに自然を日常的に観察しなければならない時代を迎えてしまっている。屋久島も、それと無縁ではないのだから、その特別な立場を認識した上で先輩としての育成や再生の方法を語ることが求められている。
と、旅行者はいい加減に思いつくのだが、ほとんどの場合現実はすでに動いているものだ~。
2. 生命の島とひげ長老
空港の近くで珈琲・樹林という看板を見つけて、大きなテーブルに一人すわって朝のコーヒーを注文した。先客は2名カウンター席でコーヒーを飲んでいたが、気がつくと壁一面に雑誌が飾られている。季刊誌「生命の島」、もう80号を重ねている。創刊は1986年だからもう20年続いている。どうやらここが編集室になっているようだ。観光客目当てのタウン誌ではなく島に住む人への内容だが、島の外の人間からこの星にまで意識がくばられた総合誌になっている。
例えば80号では、町村合併で生まれた屋久島町について、その初代町長候補予定者のマニフェストが特集。連載に「やくしまの食」や「民族行事」の紹介がある。同時に島在住の登山家による「カラコルム氷河の旅の報告」や長年つづいている「フィールドワーク講座の報告」森林伐採と暮らしについての報告とそれに参加した学生たちの感想がある。バックナンバーにも文献資料になるものが多くあって、その総目次が紹介されている。このような雑誌があって、しかも続いているのはちょっと信じられないことだ。
どうやらこの島には多くの科学者や技術者が訪れていて住んでいる人との交流があるようだし、若いガイドは県外の人が多いと言う。高齢化時代を向かえて移住する人も少なくないようだ。常に外からの出入りがある社会は、ふところが深い。この島は自然や人と同じように、思考もまた常に若返り再生しているようだ。民宿のご主人も外からの移住者に一家言持っていて(都会の住まいをおいたまま単身で来る人は、何も知らないのにすぐに仕切りたがる人が多い)、それは定年退職者にこちらが感じることと共通していて楽しかった。
以上に結び付けるには強引過ぎるかもしれないが、ヤクスギランドの奥に大きな杉が見つかり名前をつけることになり、1,000を越える応募の中から小学1年の少女がつけた名が選ばれた。根元に生えた植物からヒントを得て「ひげ長老」という。これまでの名前、縄文杉・仁王杉・夫婦杉などと比べると、なんと新しくみずみずしいことか。ネーミングにはもちろん、それを選んだセンスにも感心した。この島にはこのような新しい芽を生み出し育てる知性があるのだ。
もう一度訪ねることがあれば、樹林の自家製のケーキをぜひ賞味したいものだ。ただしこの島の水を飲み続ける(人とことば 便秘の島 山本晃司)つもりはまだない。
突然、屋久島へ 071126~1129
2007年12月7日
0-1.旅の前に いつか屋久島に行ってみたいと言うと、急いだ方がいいと友人が言う。縄文杉を見る山登りは往復10時間かかるから年齢を考えると早晩行けなくなるという、すでにダメかもしれないがともかく行くことにする。観光協会にメールすると月末までが観光シーズンという、ともかくチケットをおさえる。帰りは行ってから決めればいいだろう。
0-2.ということで観光協会のホームページを見て、宿泊先を探す。そして以下のメールのやり取り。
*つわんこ さま
26日月曜・午後13時30分空港到着の便にて、そちらに参ります。当日(ないしはもう1,2泊)泊りたいと思いますが、だいじょうぶでしょうか? ・70代のじじい一人です。 ・翌日できたら、縄文杉にトライしたいと思っています。(自信はなくて、途中であきらめるかもしれませんが、ともかく) ・その他やくすぎランドなど、初めての屋久島をゆっくりとまわりたいと思っています。 ・観光協会の案内、いろいろ見ましたが、やはりお宅だろうと、メールをしました。だめならば、なるべく早くご返事ください。
*田原様 Sent: Thursday, November 22, 2007 11:57 AM
こんにちわ 数ある屋久島の宿の中より癒しの館『つわんこ』をお選び頂き有り難うございます。
>観光協会の案内、いろいろ見ましたが、やはりお宅だろうと、メールをしました。
嬉しい お言葉を見て 思わずにっこり(^^)いたしました。明日からは、満室になっておりますが・・26日からは、部屋は、いくらでも空いておりますので 大丈夫です。ご予約承りました。 有り難うございます。m(_ _)m お食事は、いかが致しましょう?2食付きと言うことで宜しいでしょうか?空港までは、お迎えに行けませんが・・バスでいらしたら 「牧野」で降りていただいて お電話頂ければバス停まで迎えに行きます。では・・・お会いできることをお待ちしています。
・民 宿 : 癒しの館『つわんこ』 代表者:満園 茂(ちょんまげさん) 女 将:満園 啓子
*つわんこ 満園茂 さま
早速にご返事いただいて恐縮です。はい、食事つきでお願いします。着いてからのことですが、山登りのガイドさんなどご紹介ください。では、お目にかかるのを楽しみに。田原
1.11月26日(月)
JEX2405便 大阪伊丹10:00→鹿児島11:15 JAC3747便 鹿児島12:55→屋久島13:30着
*運賃 シルバー割引/18,450円+9,550円 合計 28,000 円
大阪空港から出発、国内航空は久しぶり。チケットをネットで取ったのだが、25%引きのシルバー割引なるものがあることを知る。鹿児島空港で昼食・黒豚サンドに紅茶、屋久島便は水平飛行10分で到着。桜島が火口までよく見えた。他の乗客は迎えのバスやタクシーで消え、気付くとこちら一人がバス停に残る。観光案内所で地図などをもらうが、1時間半ほとんどをベンチで過ごす。これもまた愉快だ。
民宿は庭の離れが客室で3室、思ったよりきれい。時間があるので、近くの町立屋久杉自然館へ送ってもらう。屋久杉博物館、巨大な切り株、縄文杉のビデオなど。売店食堂で甘酒をもらう、店番は脱サラの関東の人、そんな感じがしたので尋ねてみた、夫婦で引っ越したとのこと。帰りのバスは縄文杉ハイクからの人ばかり、達成感にあふれた上機嫌の顔だった。同宿は柳川からの女性ひとり旅のCさん、登山が趣味の本格派、明日ご一緒することになった。風呂は露天、朝自宅にいたとは信じられない別世界にいる。10時消灯。
2.11月27日(火)縄文杉ハイク
朝4時に起こされお弁当を2つとヘッドランプを渡され、バス停(昨日の自然館前)まで送ってもらい5時のバスに乗る。残念ながら雨模様だが満席。途中からさらに小さなバス2台に乗り換えて登山口まで。5時45分に出発、ここに夕方5時に帰ってこないとバスがなくなるとのこと、暗い中を出発させるとはうまいやり方だと感心する。若い人がほとんどだが、年配のグループもいてちょっと安心する。
道はトロッコの軌道、ヘッドランプのあかりを頼りにうつむき加減に枕木と土とを確認しながら歩く。鉄橋、谷は深そうだが暗くて見えないので助かる。廃校になった小学校跡を過ぎる頃にようやく明るくなる。レールも中央に板が敷かれて少し歩きやすくなる。グループの先に出るが、前の若者が見えなくなりCさんにも先行してもらって、周囲に誰もいなくなる。歩いても歩いても同じような景色、間違いはないとは思うが不安になるほどだ。大きなヒキガエルに出会い写真を撮る、何年ぶりだろう。
3時間近くたってやっとトロッコ道の終点、先に行ったCさんが待っていてここでお弁当を使ったとのこと、こちらも雨の少ない木陰にすわって朝食にする、30分休憩して9時出発。ここからは急な山道。何時の間にか周囲は沢山の人、若者のグループにはすぐに離されるが、別の人が続いてお互いに声を掛け合って登る。若者の一人が意外に多く一緒に休んだりちょっと話したりする。材木の階段が付いていたり、道をふさぐ倒木をL型に切り取って踏み板にしてあったりと、ずいぶん整備されている。でも雨やしずくは何時も落ちてきて、こちらのコートはすっかり水を吸って背中が冷たい。休むと余計に寒いし、濡れた場所に座り込む気にもならなくて、結局先を急いでしまう。カメラを取り出す回数もめっきり少ない、それでも鹿と猿に出会う。お天気ならもっとゆっくりしたのだろうが、それが幸いしたのかウイリアム株、大王杉夫婦杉と続いて、途中であきらめる気にはならなかった。やがて先行組が降りてくる、Cさんにもう一息と言われてがんばる。
そしてあっけなく縄文杉の目の前に出る。11時、運悪く降りは一段と強い。ゆっくりと眺める気分にならない。触れることはできないし、見るには遠い、撮るにはアングルが低すぎる。杉と心を通わせるなんて、とても不可能だ。若い人の写真を撮ってあげ、こちらも撮ってもらう、真似をしてやぁと手をあげてみるがどうも落ち着かない。しばらく歓声をあげる皆さんを見たり杉を眺めたりしたが、することもなくなって下りることにする。もう来ることはないと思いながら、結局10分くらいしかいることができなかった。結局こちらの縄文杉についての思いは、目の前ではなくその前や後で考えたことばかりになってしまった。
ゆっくりと思うのだが、それでも下りは早い。大株の中に入り込んだり、案内のあった散歩道に寄ったりしたが、雨はやはり道を急がせる。何より、よくもまぁこんな道を登ったものだと自分に感心する。濡れた木の階段は何度か足をすべらせヒヤリとする。後でガイドもする宿のご主人が、事故の90%以上は下りで起こるのだと言われる、無事に降りれたのはラッキーだったのだろう。唯一屋根のある学校跡の休憩所で、濡れたシャツを換え用意の食べ物を取り出すが、若いカップルに追い立てられるような気分になってしまう。バス停到着は14時20分、上りより1時間も早い。バスもすぐに出発、宿に着いたのは16時半、Cさんとは1時間違い、9時間40分・33,000歩の行程だった。
コーヒーが出てきて感激する、お湯をもらって用意のそれをたてようと思っていたのだ。入浴、食事、持参のシップをはりまくって、寝る。
11月28日(水)ヤクシマランドと仁王杉
柳川のCさんが8時出発、写真を撮りあって見送る。お連れ合いは何時ものように家で留守番とか、やはり自分のお金がある有職ならではの自由なのだろう。こちらはゆっくりと朝食、部屋でノート、昨夜用意してもらった軽のレンタカー(2日で1万円)で出発。雨模様、この天気がここでは普通のようだ。
ヤクシマランド、遊歩道のついた自然観察森。ここをゆっくり歩こうという魂胆、30分から150分コースまでありもちろん後者、周囲は誰もいなくてすぐに深山幽谷。それにしても、昨日といいここといい切り株や倒木だらけ、あちこち伐採しまくった乱暴狼藉の跡だ。江戸時代、屋根板を取るために幹のまっすぐな部分だけ取り後はそのままにしたとのこと、普通なら荒地になった筈だ。それが高温多雨のおかげで、苔がおおい新しい木が育って緑豊かな島になっている。私たちはうっそうとした森と言うより若木も多い再生の状況を眺めている。頂上の東屋で休んでいると茨城からの母娘が若い女性のガイドさんとやってくる。さらに川沿いでも休む、ここでは一人でゆっくりする。出入り口付近は結構な人、けっきょく3時間近く過ごした。
そこからさらに奥の紀元杉へ、3000年という肌に触れる。写真を撮っていたら沖縄の青年がやって来る、着いてともかくやって来たと言う、そういう思い入れを呼ぶ場所なのだとうれしくなる。
宿に帰って、まだ時間があると温泉へ行く、尾之間温泉200円。夕刻お年寄りが多い、皆さん挨拶をしている。平屋だが、浴場は半地下になっていて天井が高く気持ちいい。湯船はコンクリートだが底は丸いごろごろ石、木造の屋根裏、おそらく屋久杉の壁板がうれしい。熱いお湯で、長くは浸かってはおれなかった。
夕食はまたまた食べきれないほどの用意、それが意図されているようだ。
11月29日(木)屋久島ぐるり
宿の支払いを済まして、出発。まず空港近くで見つけた喫茶店でコーヒー、客は2人コーヒーを飲んでいた。品のある女主人(これは後述)。いちばんの集落、宮之浦でスーパーがあったので入ってみる、結局ここでの買い物が唯一のお土産になった。店の後ろの海岸に行って、しばらく波を見る。環境文化村センター(博物館だが、呼称がなんとも変だ)で呼び物の大型スクリーンを見る。実物以上に縄文杉をきちんと見たような気になる、おもろいものだ。もう午後1時、食堂がないまま走って、海がめの海岸に出る、カップルがいて写真を撮りあう。ガソリンを補給、隣の店でパンなど購入、教えてもらったレストランはなんと休み。そのまま西側に入ってしまい、灯台そして林道、鹿と猿に出会う。ガジュマルの樹のある集落。
そして海中温泉、岩場で衣服をぬいで入る100円。客は多く、土地の人と観光客が半々、女性もいる。ここはぬるめで長時間いれる。なんと民宿のご主人もいる、どうやらこちらを待っていたようだ。
気がつくともう時間がない。信号で2台をぬく猛スピード運転。空港前の給油所にいると、後から来た車に叱られてしまった。車は言われたとおりカギをかけずに駐車場に乗り捨て、カウンターへ飛び込む。チケットを買うと同時にもう搭乗というあわただしさ。やはり、この行程はこちらには無理であったようだ。
明日も同じような雨模様の天気だし、3時間足らずで1周できると言われて、遅い到着の神戸便に乗れるのも魅力だと、ついその気になったのだが、当初は確かもう1泊する筈だったのだ。
JEX2405便 屋久島10:00→鹿児島11:15 JAC3747便 鹿児島12:55→神戸13:30着
団体客もいてほぼ満席の神戸便、神戸のあかりが見える。モノレールで三宮、夕食の弁当を買って帰る。最後はなんとももの悲しい終わり方でございました。
[費用]
・ 航空機 片道28,000円、往復56,000円
・ 宿泊 (1泊2食付で8,000円)25,100円
・ レンタカー軽48時間(保険込み)10,800円 ガソリン代 1,764+952 小計 2,716円 合計94,616円
・ その他、入場料・食事・喫茶など 約10万円 以上