中国・寧夏~西安1410・関西日中 寧夏交流支援ツアー
2014年11月9日
旅の記録, 1410寧夏回族自治区~西安, 関西日中・交流支援ツアー
中国・寧夏~西安20141012~1018
Ningxia Huizu Zizhiqu(寧夏回族自治区)~Xi’an (ShaanXi 陝西省)
2014年関西日中・寧夏訪問交流ツアー
協力・寧夏回族自治区人民対外友好協会、固原市原州区教育局、中国人民対外友好協会
1・10月12日(日) 六甲is発6:23~7:20 関空7:30集合(出発ロビー)
CA162 関空発 9:00~北京着11:00
CA1219 北京発13:25~銀川着15:25
16:45 ホテル到着 部屋に入りお茶をわかして落ち着く。
18:00 夕食へ 友好協会の招待。トップは40代女性(こういうケースがほとんど、対応もソフト)
豪華食卓に一気に中国寧夏になる。料理は、メインが子羊姿焼き。パリッとした皮がおいしい。全体は辛いが、野菜、果物(ドラゴンフルーツ、ナシ、ぶどう、ナツメ~)も豊富で驚く。
夜寒く(暖房はまだなし)毛布を2枚にして、レギンスをはいて寝る。足が何度もつって参る。
宿泊・銀川 長相億賓館
2・10月13日(月)
午前 大学生との交流(寧夏大学、北方民族大学)
北方民族大学へ、日本語科の学生さんが待ってくれていて、小グループに分かれて話し合う。
こちらは青木さんと、7名の女子学生さん(2名は昨年関西日中招待で来日)、日本語がうまい。
やはり就職難(とくに日本語をいかす仕事は皆無)なにか申し訳ない。だが明るく前向きで、それがうれしい。楽しい時間だったが、役に立つ話ができなかったかと反省。また2年生と4年生の差に驚く(当然だが)。
午後 銀川第20小学校・絵本「空とぶカエル」贈呈式
小学校へ移動。生徒が待っていてくれて贈呈式。大人の挨拶が延々と続いたが、とても辛抱強く、感心。大人は長い挨拶を原稿なしできちんとする。教育の成果なのだろうと、感心(こちらにはマネできない)
*著者の前田満(84才)氏は、生物学者で元ジャイカの方、20年前松枯れ病対策のため銀川に日本人初の滞在者。その時知った民話などを、定年後童話として完成させた。さすが昭和ヒトケタと、大感心。
日本語科の学生さんの朗読、南島さんのスライド、姪の伊藤さんのピアノで、子どもたちへ紹介。見事な仕上がりに、こちらはただ感心した。その後、ピアノ演奏が3曲、立派な贈呈式だった。
銀川に帰らず、呉忠という町に宿泊。地方都市だが、広い道路と超高層ビルに驚嘆。 宿泊・呉忠
3・10月14日(火)
午前 固原市へ移動~(高速道路)~固原
途中 塞科郷訪問(塞科小・中学校訪問)
固原へのバス、途中都会らしき場所は広い街路と高層ビルの林立、それだけの人がいるのか、どうも田舎からの流入を見越しての建設のようだ。国土が荒廃していくのではないだろうか。
途中で高速道を離れ、黄土高原の中へ。
5年前に訪ねた村なのに町並みがまるで変わっていて、よく思い出せない。
夜、固原のホテルにやっと到着。青木さんの友人の方円さん(仏教の和尚)がご夫婦で訪ねて来られていて、こちらも懐かしい。食事後、青木さんの部屋で、全員が参加してミーティング。瑪瑙の仏像をお土産にいただく。親鸞の歎異抄を訳されたそうで、その解釈をぜひ知りたいと思う(目下、和訳中とのこと)吉本隆明さんのことを言いたかったが、説明に自信がなく言えず。
宿泊・固原 華供賓館
4・10月15日(水)
午前 固原市西吉県馬建県揚路村 訪問 揚路小学校 (方円さんも)
方円さんの紹介で、ここへの援助(最初は、井戸の建設・提供)がスタートしたということを知る。また3年前と生徒数が激減していて、驚く(生徒20名、先生2人)。大人数を相手に、ここでお絵かき教室をやったのが夢のよう、その賑わいはまるでない。都会へ出て行く家族が、いまも後をたたない。来年は何人になるかまるで予測できないと、校長先生はおっしゃる。都市開発のやり方を見ると、政府もそれを推進している。
県庁のある西吉、その都市開発、大豪華ホテルに驚く、そこで昼食(外事弁の招待)。毛庄村小学校で支援学生との面会(こちらは眺めていただけ)。固原に帰る。夕刻、固原に帰り回民中学で支援学生との面談(委員)その間こちらは学内を見学したりして過ごす。夕食はまた豪華な招待。
宿泊・固原 華供賓館
5・10月16日(木)
8:00出発。方円さんなど皆さんにお別れ、女子大生2名は同行(固原も西安も初めてとのこと)。高速道路を行く。前回5年前はまだ通ってなく、ずい分時間がかかった。自動車の多く、西安に近づくにつれスモッグ、北京だけでなく、多くの都市がそうなのだろう
14:00到着。南島さんの友人、朱さんが待っていてくださる。5年前に大変お世話になった。昼食を済ましてから、自由行動。ひとり、イスラム街の屋台村を歩いてから、スターバックスでコーヒー(いずれも5年前と変わらぬ)やや風邪気味でしんどい。
夕食後、朱さんの案内で、外国人向け民族舞踊の劇場へ。白人の観光客でいっぱい。出し物は豪華絢爛、技術も一流で満足。200元、食事つきだと1,000元。満足して帰るが、長い1日、疲れた。
宿泊・西安城市酒店
6・10月17日(金) ・兵馬俑博物館・碑林博物館
8:30出発、兵馬俑へ。道路が広くきれい(5年前にもあったと言われる?)。兵馬俑は5年前と同じ、旅行社の案内は、先へ先へと急がされる。(説明があるのがいいか、自分勝手のゆっくりくまなくがいいか、一長一短)。(10数年ぶりという皆さんは、2~4号館が初めて)。公園内で昼食、日本人グループ(仏教関係?)に会う。帰りはバス道で、5年前(始皇帝陵に上ったこと、西安の城壁を歩いたことなど)を思い出す。
碑林博物館前で降ろしてもらう。青木さん岡野さんと一緒だが、すぐに別れる。こちらは碑林より、すこしある絵画彫刻が楽しい、学生さんが仏像の模作をしていた。ゆっくりして引き上げる、歩いて中心の広場、またスタバへ。風邪気味、夕食には行かず、そのまま寝る。
宿泊・西安城市酒店
7・10月18日(土)
CA1290 西安発10:30~北京着14:00 CA161 北京発16:25~関空20:30
6:30まで寝る、気分はまぁまぁ、小谷さんの部屋でコーヒーをいただく。
9:30ホテルを出発、高速道路、運転手さんの追い越し技能に感心する。空港、トラブルなく無事帰国。
ほんとうに、アッと言う間の旅でした。
201410・中国寧夏~西安・関西日中交流支援ツアー
2014年11月7日
旅の記録, 中国・寧夏~西安20141012~1018, 関西日中・交流支援ツアー
中国・寧夏~西安20141012~1018
Ningxia Huizu Zizhiqu~Xi’an (ShaanXi 陝西省)
2014年関西日中・寧夏訪問交流ツアー
協力・寧夏回族自治区人民対外友好協会、固原市原州区教育局、中国人民対外友好協会
毎年行われていた関西日中懇談会の交流支援ツアーが、延期になっていたが、2年ぶりに再開し参加しました。
その間の変貌は、予想以上に大きいものでした。そしてまた、関西日中の活動もまた変化せざるを得ません。
でも以前からの友人や学生さんやお世話をいただく皆さんや先生たちとの関係は変わらない信頼と親しさの中にあって、それこそが、いまの両国にとって、何より大切で必要なことだと思いました。
1・10月12日(日) 六甲is発6:23~7:20 関空7:30集合(出発ロビー)
CA162 関空発 9:00~北京着11:00
CA1219 北京発13:25~銀川着15:25 宿泊・銀川 長相億賓館
2・10月13日(月)
午前 大学生との交流(寧夏大学、北方民族大学)
午後 銀川・絵本「空とぶカエル」贈呈式 宿泊・呉忠
3・10月14日(火)
午前 固原市へ移動~(高速道路)~固原
途中 塞科郷訪問(塞科小・中学校訪問)
宿泊・固原 華供賓館
4・10月15日(水)
午前 固原市馬建県揚路村 訪問 揚路小学校 力石さん
午後 毛庄村訪問・(交流活動) 村内見学など 宿泊・固原
5・10月16日(木)
午前 西安に移動
午後 西安観光 宿泊・西安城市酒店
6・10月17日(金)
午前 西安観光・兵馬俑博物館
午後 西安観光・碑林博物館 宿泊・西安城市酒店
7・10月18日(土)
CA1290 西安発10:30~北京着14:00
CA161 北京発16:25~関空20:30
・参加者 関空出発・5名 途中帰国を含め・全9名
人数の少なさは、やはり両国の現在の関係を映し出しているようです。
1407フランスの旅で思ったこと・5 Tシャツ女の子集団
2014年10月31日
5)Tシャツ女の子集団
エッフェル塔の前の広場、急に観光客でいっぱいになる。そこに新しいおそろいのTシャツを着た若い女性のグループがいて、署名活動をしている。確か昨日もいて署名をしたことを思い出した、ご苦労さんと声をかけたくなった。~つまり、こちらの感情は通常ではなかった。
その一人が来てボードを目の前につき出しサインをせがむ。昨日もしたと振り払って行こうとするが、しつっこい。中国人かと言われ日本人だと答える。後で考えると、Tシャツの新しさに比べてボードは、やけに使い古したものだった、とてもアンバランスだった。
ともかく振り払って歩く。しばらく行ったところで、肩にかけたバッグに手をやるとチャックがひらいている。中のサイフがない。やられた!こちらがボードに気を取られている間に、もう一人がその下に隠れたバッグに手をのばしたのだ!もう手遅れである。慌てて引き返してみたが、もう彼女たちはいない。たぶん大喜びしているのだろう。かくして、お土産を買うかもしれないと、ホテルを出る前にわざわざ追加した500eur、クレジットカード2枚などが消えてシマッタ。あれだけ注意していたのに。
考えてみれば、若い人たちのおそろいのTシャツは、ボランティア活動というイメージを日本で刷り込まれている。ユニセフやあしなが育英会や各種の市場調査などなど~、つい心を許していた。よくぞまぁ、20年間世界を旅してきたコチトラから盗んだものだ、と悔しく思う心が。やがて、田舎ばかり旅している老人が、世界のパリにおのぼりさんして、当然のむくいを受けてしまった。当然だろう。それなのに自信だけあって、なんという思い上がりだったのだ。お恥ずかしい。
20年がたって、旅のおっさんはスッカリ老いてしまった。まだ、突き飛ばされて、ころんだりしなかったのが、幸いと思うことにする。ヤレヤレ~、その夜は、さすがに寝れず、何度も何度も悔しかった。
付記)帰国後、ダイナーズのカードもストップ。Visaも使用はなし。海外ではサインでなく、専用機器への暗証番号の記入が一般的だから、それがわからなければ使うことができない。目下のところ、最も安全なシステムと言えるかもしれない。おかげで破産することなく、これからの生活が続けられる(お恥ずかしいことだが、ちと本気で心配したのであります)。新しいカードも数週間後、無事に送付されてきた。
もう1枚、わが町の高齢者優待割引にカードも再発行してもらった。やはり失う人は少なくないようで、役所の対応などそのシステムもスムーズだった。ただし意図的な人手不足なのか、こちらは送られて来るまで大変に時間がかかった。
1407フランスの旅で思ったこと・4パリ祭の花火
2014年10月31日
4)パリ祭の花火
夕食は広場でリゾットを食べてから、8時過ぎ花火を見に行くことにする。7月14日、独立記念日、日本ではパリ祭と言っている。といってどこで見るのがいいか、まるでわからず、適当に河畔へ。搭は半分しか見えないのに、人でいっぱい。そこで坐って待つことにしたが、一人はこちらだけで、どうも落ち着かない。家族づれかカップル、薄暗くなってますます「おめえここで何しての?」とバカらしくなって、引き上げてしまった?!
部屋に帰ってテレビをつける。ちょうど始まったところ。伴奏というのか、きちんとしたオーケストラの演奏でモーツアルトのレクイエム、それに合わせて花火が踊る。引き込まれてしまう。音楽は、その後バッハ、フランス国歌、イマジン、そして第9の4楽章合唱と流れ、それにシンクロして花火が続く。搭のあらゆる部分から噴き出したり、逆に内側へ向かったり、あるいは塔を浮かび上がらせるように周囲に上がったり、この都市をシンボライズする塔を主役にしたコンサートになっていた。カメラは全景を見せるフィックスのそれが、突然空中のヘリコプターからの視点になったり、テレビの映像として考えられたショーになっている。そのことに感心すると共に、花火をこのように扱うことに驚いた。45分間のショーは、このような興奮の中で終わった。途中、アナウンサーの声はなし。いえ、終わった後も、花火の上がるヘリコプターの映像をバックに、延々とクレジットが流れて、アナウンサーの声は一言もないままに番組は終わった。
花火をこのようにコンサートとして見せることにビックリした。さすが芸術の国だ。花火は日本の方が上だろうと、やみくもに信じていた自分を恥じた。それにしても、これを日本のテレビは、なぜ紹介しないのだろう。ウィーンの新年コンサートは毎年流すのに、と思った。(ネットを探すと、見れるのでしょうか?)
来年、もし誰か一緒に見ようという人がいたら、セーヌ河畔の塔の見える部屋を取って、そのベランダから現実を見ながら、同時にテレビを見ると言うのが最高だろうと思いながら、就寝。~こういうことがあると、富子さんを思い出す。もう20年も前のことになるのだ、夢のようだ。
1407フランスの旅で思ったこと・3ルーヴル・ランス
2014年10月30日
3)ルーヴル・ランス Louvre Lens
リールLille郊外の小さな町ランスLens、ここは以前炭鉱があった町でボタ山が見える。その町おこしのために、パリのルーヴル美術館が分館を開設した。設計コンペの結果、妹島和世・西沢立衛のユニットSANAAが選ばれた。2012年にオープン。
駅から遊歩道を歩いて、やがて草原のような敷地に入って、遠くに写真で見た低い箱が並んでいるのが見えてくる。建物は3つの箱、中央はチケット売り場などサービス棟でここはガラス張り。左右の展示棟はステンレスのような金属の外装材、化粧によって周囲の自然をピンボケにして映し出している。そのため、近づくにつれ映し出している自然が目に入って、そのぶん建物が消えて、夢の世界にいるような感じがする。
チケットを求め、荷物を預け、カメラだけ持って展示室に入る。柱のない大きい白い部屋、そこに作品が並べられている。よく見ると、床面が自然の大地のように、なだらかにうねっている。壁面も微妙にカーブしていて、自然を自然のままに仕切るとこうなるのだろうという気がする。模型をいくつも作って検討していたSANAAの感性が、コンピュータの活用で自在に表現できるようになった結果の形と言える。建築が重厚長大の技術から脱した形が、ここに見られるように思う。今回は周囲を写しこむ外装材の採用で、自分の大きさを消してしまうことに成功されている。
そこに話題を呼び、すっかり有名になっている展示がある。地域に関係なく、ただ年代だけを物差しにして作品が並べている。エジプト、クレタ、ギリシャが隔てなく並んでいくのは、とても気持ちがいい。いろんな人種が交じり合っている現代の都市というか、マーラーの4番の天上の生活のようだ。それは境界のあいまいなこの空間にぴったりの展示の方法だと思った。年に5分の1ずつ変えて5年ですべて変わると言う。
とはいえ結局のところ、エジプト~メソポタニア~ギリシャ~ローマという西欧文化誕生の歴史をなどっただけ、中国はもちろんガンダーラもない。それを人類の美術を平等に扱ったと言うのは、言い過ぎだろう。
と同時に、ここはルーブル美術館だ、西欧文化の中心だ。これ以上の選択なんて不可能だろう。これだけでも、よくぞやったと考えるべきだろう。と思いながら、ここにイランや中国、はるか極東の視点を思ったりした。
世界はまだまだ遠い。パリのアフリカやアジアの美術を展示した、ケ・ブランリー美術館では、何の疑問も感じないようにプリミティブという単語を使っていた。今も、西欧がいちばん進んでいて、他は未開の地域なのだという無意識を感じてしまった。
食堂で一休みする。ショップをのぞいたりして、約3時間、帰りを気にしないで見ることができたのが、うれしかった。日本の方には会わなかった。
・外壁に周囲の自然が夢の世界のように写りこんでいる。
・特別展示・戦争の惨禍 1800~2014年
もうひとつの展示室は、第1次世界大戦100年でもあるのだろうが、その特別展。入口に、大きな白馬のナポレオン像(フランスの人にとって最も有名な絵だろう)。その背後にゴヤのその現実を描いた版画、この戦争以来、普通の人が参加するようになって、戦死者が増大した。銃殺の巨大なスケッチ(ゴヤのコピー)などが、アフリカや新大陸の征服戦争に続いてアメリカの南北戦争へ。続いていく。
表現も絵画、版画から、写真へ、ロバートキャパ、LIFEの写真家たち。そして動画、第2次世界大戦は、原発の空中からの映像とアウシュビッツの映像が特別のコーナーとして並んでいた。そして、ベトナムのこちらに泣きながら逃げてくる裸の少女は、今もシリアやガザで続いている。
ヨーロッパの人が、戦争をどう理解しているかが見えたように思えたし、それは第2次大戦で戦争は終わったと思ってしまう私たちの感覚とは、やはり違うようだ。今も、懲りることなく戦争はまだ続いている。そう考えることは、とても大切なことだろう。
この展覧会、そっくり借り受けて、広島の現代美術館で開催して欲しい~。いま問題になっている、隣国との関係についてもまた違う視点から考えることになるように思う。