旅の記録 の記事一覧
しまなみ海道フェリー
2011年10月14日
突然ですが、1泊でちょっと楽しい旅をしてきましたので、その報告です。
いえ、8月の東北の旅で知り合ったRieさんとゆーらさんが仲良くなり、Rieさんが地元の四国・善通寺でコンサートを企画して、ゆーらさんが演奏しました。小さな会場は親しみと知的な雰囲気の好ましいものでした。
ゆーらさんは初めての瀬戸内、翌日今治からフェリーで尾道に行くというので、つき合うことにしました。朝8:30琴平駅で落ち合って、まずは金毘羅さんへ、700段の階段はこちらには以前よりしんどいものでしたが、曇天が助けてくれて、ともかく走破。山上からの四国平野の眺めはいまひとつでしたが、幸運を祈って下山。
11:29琴平発の列車、多度津で特急しおかぜに乗り換えて、13:38今治着、おうどんの昼食を済まして、今治港から14:45発の高速フェリーで出発。お客は家族連れが1組とあとは学生さんと買い物の女性たち。やがてしまなみ海道の橋と別れて、もっと南側の島に立ち寄りながら、因島の土生(はじ)港へ16:00到着。さらに小さなホワイトドルフィン号に乗り換えて16:45出発。お客は、こちら2人と家族連れのみ。
尾道市街を望む川のような尾道水道に入ったところで、船員さんが舳先の小さな甲板に案内してくれ、頬をなでる風と、幸運にも晴れてきて赤く沈む太陽、それを受けて輝く尾道の町並みを眺めながらのなんともラッキーな時を過ごしながら、無事に駅前の埠頭に到着しました、17:30。
そこで一泊して広島へ行くと言う彼女と別れて、こちらは神戸に帰って来ました。
しまなみ海道、バスや自転車の旅だけでなく、このようなフェリーの航路があることを、ご存じない方も多いと思うので、その紹介を兼ねて報告することにしました。行きを自転車かバス、道後温泉か今治の鈍川温泉(にぶかわ温泉・これもおすすめ)で泊まって、帰りをフェリーというのはいかが。
東北/気仙沼・石巻~十和田 20110828~0831
2011年9月11日
東北/気仙沼・石巻~十和田 20110828~0831
Touhoku/Kesennuma~Ishinomaki~Towada
もう半年たちました。海は静かでほんとうに美しい。あの災禍が嘘であったらいいのに、
いえ実際あれは夢であったのではないか、ついそう思ってしまいます。
[旅の前に] 突然ですが、明日早朝から東北に行きます。いえ「東北に行ってみたい。福島は無理だけど、あの津波の跡をこの目で確かめてみたい。風の音や臭いなど、行ってみないとわからないことがある」と言ったら、私もそう思うという人がいて専門職の相手がボランティア先を探してきて、行き先と出迎えを確保した。そうするともう一人、私も連れて行ってという人も出て、結局3人で出かけることになりました。ともかく仙台空港で3人が集まり、迎えの車に乗って気仙沼に向かうことになっています。2人は仕事があるので、長居はできませんが、ともかく東北にこの身をおいてみることができます。ありがたい、うれしいことです。30代Y(ビオラ演奏家)、50代R(歯科衛生士)、70代のコチトラの3人という構成もめったにないものでしょう。
(中国の旅を、ばたばたとまとめた理由もここにありました)
[ まとめ方 ]今回の旅、あまりにいろいろのことが次から次に起こって、筋道をたててまとめることはとても不可能。起こったことと思ったことを、併記しながらともかく書きつけることにします。読みにくいと思いますが、こちら自身のためです。お許しください。
1・8月28日(日)
阪急・御影6:31 ~十三~蛍池~大阪・伊丹空港
CA162 大阪発 7:50~仙台着 9:10
仙台空港にて東京からのYさんと合流、迎えの車で出発、という予定だが、なんと大チョンボ。Rさんだけで出発してもらう。初対面だが何とかなるだろうとお願いする。二人は空港で出迎えの藤田さんとも落ち合い、目的の気仙沼の避難所へ。その2時間の道中、お互いにとても親しくなったとのこと。Rさんはそこで口腔ケア、Yさんは演奏を行った。
[大チョンボ]伊丹空港に着いて、なんとリュックを電車の網棚に置き忘れて来たことに気付く。阪急蛍池の駅でそのことを言って、探してもらう。梅田にはなく西宮で残っていることが判明、取りに行く。ごく普通に何でもないことのように渡してくださる。なんと電車も無料、ご厚意に甘える。
*この間のすべてのことは、さすが日本というか阪急神戸線というか、外国では考えられないことだ。
それにしても、じじいになったものだ。またあることに気を付けねばならない。
カウンターで次の便をお願いすると、無料で切り替えてくれて無事出発することができる。
CA733 大阪発 9:45~仙台着11:00 わずか2時間の遅刻ということになる~イヤハヤ。
空港バスで仙台駅へ11:00発~12:00到着。駅で気仙沼行きを尋ねると、在来線が早いとのこと。
*乗り継ぎ駅・時刻を丁寧に書いてくれて(専用用紙まである)恐縮。この国ならではの親切だ。
東北線下りで北上する(西に住む者には、逆の感覚)。昼食は車内でコンビニおむすびとお茶。乗客、大きなリュックの若者多い、こちらと同じような昼食も数人いた。
仙台12:45発~小牛田~一関~気仙沼16:09着
駅前のタクシーに、ケータイで聞いた避難所の中学校を告げると、30分足らずで到着。ビオラの音が聞こえてきた。後で聞くと、結局4時間の遅刻だったようだ。皆さんは、もう何時間も活動している。
[避難所と仮設住宅]気仙沼市でも石巻市でも、まだ避難所が残っていた。目の前に仮設住宅は建っているが、優先順位の高い子どものいる家庭や大家族で、すでに満杯。残りは遠く離れた山間の場所への移動を要求されている。残っているのは高齢のおひとりさまがほとんど。そちらが便利と言われても、行く気になれないのも理解できる。住み慣れた場所を離れるのはつらいだろうし、震災後一緒に避難していた仲間が目の前の仮設にいるのだから、その差別?に納得できないと思うことも理解できる。
こちらができることは、ただその話を聞いて、そうだそうですね、つらいですねと言うだけだ。
*数日後、岩手県では避難所はすべて閉鎖したとの報道があった。
*阪神大震災では、仮設住宅は遠くの場所がほとんどで、全員が有無を言わせずに引っ越しさせられた。そして後で孤独死などの問題が発生した。
[被災地でのボランティア・口腔ケア]高齢者にとって口腔ケアは欠かせない。その大切さはここ数年ますます認識されている。口をきちんと動かすことは、表情・ボケ・健康につながっている。その清掃とマッサージ、健康維持の指導など、それを担当するのが歯科衛生士だ。
現場では受ける人の最初の疑心暗鬼が、やがてやさしい表情笑顔に劇的に変わっていく。この活動、お互いがやり方を勉強しながら深め広げている。また震災1か月後にはボランティアとして入っている。
[被災地でのボランティア・ビオラ演奏]突然の訪問。まるで期待されていない活動だが、音楽の力というか、ビオラという楽器の持つやさしい音色が、聴く人の気持ちをほぐしていく。クラッシクの名曲で始まるが、結局のところよく知っている懐かしい童謡がいちばん喜ばれるようだ。もちろん居眠りをする人もいる、でも心地よい眠りだ。
演奏のYさん、中国の田舎での演奏を聴いているが、演奏の場や音の響きなどの環境より、聴く人の気持ちを第一に考える姿勢にとても感心する。
[藤田典子さん]
今回のボランティアの仕掛け人、岡山県の歯科衛生士。なんと4月には最初の訪問で東北に入り、以来毎月訪れていている。そのバイタリティとサービス精神に驚き感心する。気仙沼市の衛生担当の職員(彼女も被災している)と親しくなり、口腔ケア体制の確立。現在2人の歯科衛生士がいる(若い人と、他へ転職していた人の再就職、夫の失業で目下所帯唯一の稼ぎ手)、その援助から育成までやって、歯科衛生士という新しい職業を被災地に定着させている。
同時にネット上でボランティアを募り、駆けつける人もまた次々に現れている。それはベテランが多いから、現地の2人はそのやり方を見て、教えられ、資料の提供を受けている。そこには新しい職業ならではの、使命感と連帯が感じられた。
またケアを受けた側から、現地での宿泊や食事のサービスを申し出る方もいらっしゃる。こうして関係が広がっていく。それはこれまでの経済感覚とは違う、新しい互恵システムだ。今回私たちもそのお世話になった。
夕刻、埼玉へ帰る一人を送るために一関へ、約1時間の距離。その間の運転はすべて藤田さん、朝は仙台空港まで行っている。その元気はどこから来るのか。倉敷ナンバーのワゴン車、人数が多いから今回はこれにしたのだと言う。たった一人で、岡山から何度も往復している。運転もまたほれぼれする。
その前、誰も要求していないのに、惨憺たる被災地へ車を入れてその現在を見せてくれる。地盤の沈下で満潮時には海水が浸入して、入ることができなくなると言う。大きな船が、道路わきに鎮座している。残っているビルは1階の壁だけが破壊されて流され、むき出しの鉄骨が海の方向に一様にねじ曲がっている。引き潮の津波の驚くべき力だ。
*これらを片付けるには巨大なクレーン(たぶん船だろう)が必要だ。それをどうやって運んで来るのか。作業の遅れをただ糾弾するだけでは正しくない。すべてが絡み合っている。
一関駅前で夕食。うなぎがおいしく、また店のおばさんが明るく面白く楽しかった。大阪のようだ。気仙沼に帰って、待っている方がいるのだと大きなお宅に立ち寄る。大きな鍋で焼いた(ゆべし?)とお茶をふるまわれる。わざわざ作って待っておられた。この地方の住まいの豪華な造りに驚く。そして近くの閉鎖した元避難所で泊まった。敷地の外れに仮設の大きな浴室がある。それも手配したのも藤田さん。本来男女のセットだが、もう1台は別の場所に設置したとのこと。
そこで顔を洗う。星空がキレイ、天の川も見えた。そしてやはり関西よりはるかに冷える。ふとんを並べ、こちらがいちばん先に寝る。翌朝、ずいぶんイビキをかいていたと言われる(生まれて初めて指摘された)。長い1日、やはり相当に疲れていたのだ。
2・8月29日(月)
6;30起床、Rさん持参のコーヒーと昨夜いただいた「ゆべし」で朝食。7:30出発、岡山からの新しい参加者を迎えるために、一関へ。道路はまだ完全でなく、渋滞。遠回りするが、同じようなものだ。
12:00避難所に到着。昼食の終わるのを待って活動を開始。ビオラ演奏は12:30から、ホールは適度な大きさで天井が高く、他の避難所よりも快適そうだ。演奏を熱心に聴くひと、うつらうつらと気持ちよさそうに聞くひと、それぞれの心に届いているようだ。口腔ケアの皆さんはそれぞれに忙しい。
[被災の人たち] 何の専門技術のないこちらは、話を聞く意外に何もできない。肩書もないから結局、ビオラ弾きのマネージャーということになってしまった。
ただ、もう半年近く過ぎて、被災者の方が訪れるボランティアへの対応に慣れておられる。こちらはその思いやりを感じながら、話を聞いている。結局のところ、いろんな人がやって来て、あれこれと手伝いサービスを提供してくれる。確かに今の被災の生活の助けになり、一時にやすらぎを与えられる。それでいい、それで充分だ、そう思われているような気がする。
だが、いちばんの肝心な問題、明日からの生活、仕事、住まいには、何の解決も与えられない。そのもどかしさというか、やるせなさが、ここには溢れている。でも誰もそれに気付かないフリをして明るくふるまわれている。偉いなぁ、心の中で頭を下げている。
16:00ここでの作業を終え、歯科衛生士のグループは今後のやり方や情報の伝え方などの打ち合わせ、こちらは周辺を散歩。車で出発、夕日に遠くの海岸が輝いている、震災などなかったようにおだやかで美しい風景だ。軽い食事、荷物を届けたり連絡などをするうちにすっかり暗くなる。
斉藤さんという藤田さんが基地にしているお宅へ行く。ご馳走が用意されている。さんまの塩焼き夏野菜海産物、東北の普通の料理が普通の味付けで並んでいて感激、おいしい。Yさんがお礼にビオラを演奏、ご主人クラッシック好きでとても喜んでもらえる。
こちらは何もしないのに申し訳ない。応接セットの間にふとんを用意してもらって休む。
3・8月30日(火)
5:30起床、6:00出発。奥さまが昨夜のご飯をおむすびにして渡してくださる。もう来ることはないだろうが、思わぬお世話になったと感謝する。
例によって、藤田さんは石巻の被災地域をゆっくりと回ってくれる。石巻は平野部がはるかに広い工場地帯、その多くが水産関連のもの。この国の水産業は、瀬戸内に住むこちらが思っていたよりはるかに大規模な巨大産業だ。
[被災地の復興]例えば水産関連にしぼったとしても、漁場、船舶、養殖の施設、港湾、市場、加工工場、倉庫物流などが、一体になって同時に大規模に復旧復興しなければならない。ほとんど困難なむつかしい作業だ。さらに、この際これまでの問題を解決して新しい方向に導こうとすると、大変な決意と一貫性が求められる。近海と遠洋では期待される内容が違う。中傷もあるだろうし、お金の使い方も片寄りが避けられないだろう。
ほとんどの人は自分に関係のある部分はよく見えるから、その遅早を問題にする。それは仕方がないことだろうが、間違いも多い。何よりテレビを見ただけの感情的な判断は、間違っていると思う方が正しいだろう。部外者は黙ってお金を出すしかないのだが、これもまたむつかしい。
8:00仙台駅到着。Yさんは午後から出社する予定だと東京に新幹線で帰って行った。同じく昨日来た岡山のAさんは福山へ。藤田さんも車を運転して帰るとのこと、今日は友人のいる千葉までと言うが、すごいバイタリティだ。短いが充実した日が終わった。
こちらはRさんと構内のスタバで一休みして、これからの行動を考えることにした。
東北/2~十和田 20110830~0831
2011年9月10日
東北/2~十和田 20110830~0831
Touhoku/2~Towada
3・8月30日(火)
スタバでゆっくりとこれからの計画を考え、切符を買いレンタカーの予約をする。
9:50仙台発、盛岡乗り換え、12:04八戸着
13:00八戸発 14:00十和田着
[レンタカー]東北ならではと言うか、レンタカーの使用ははるかに多く充実しているようだ。駅前でレンタカーを借りて、出発~しようとして、サイドブレーキがないことに気付く。なんと足踏み式。係りの人は、最近は各社こうなっていると言う。使用説明書の索引では、パーキングブレーキとなっていて、サイドブレーキから探すことはできない。これは変ではないか。観光を売ろうとするのなら、その説明があってしかるべきだろう。世界の標準を勝手に変えるのは、おかしい。と、運転中落ち着かなかった。年寄りの運転(ブレーキとアクセルを間違う)がこれだけ問題になっているのに、そちらの(車としての)解決を先行すべきだろうに、それに輪をかけるような変更は何を考えているのだろうと思う。
とはいえ、ナビの教えに従い、車が少なく信号もない道を快適に走る。1時間で十和田市に到着。
[十和田市現代美術館]
SANAAの西沢立衛さんの設計。官庁街通りに面して、芝生の中に大小の展示室が並びさらに屋外の彫刻とも一体になって、快適な街並みをつくっている。金沢の21世紀美術館の丸い輪を外して、展示室を通りに沿って並べ直したようだと思う。
なんと展示変更のために休館中、仕方なく周囲を歩くだけ。同じような人が何組もやって来る。観光案内のパンフレットにはのっていないが、人気の場所だ。
昼食をすまして、15:30出発、温泉郷へ向かう。
[酸ケ湯温泉]観光パンフレットで教えられ、300年以上の歴史があるという温泉を訪ねることにする。くろく濡れた木造、白濁したお湯はなんともいえぬ味わいがあって、遠くに来たことを教えてくれた。メインの浴場は混浴。入浴の方法や注意事項が細々と書いてある。40年くらい前まではそんなに驚くことではなかったのになぁと思ったりする。
*山崎まゆみ「だから混浴はやめられない」新潮新書でも紹介されていて、売店で売っていた。
[蔦湯温泉]やはり木造の古い浴場(翌日、掃除の時間に撮らせてもらった)がある温泉。電話で予約して、訪ねた3温泉の中で唯一普通の宿だった。温泉で一緒になった男性は名古屋から車で、平泉~奥入瀬と来たとのこと、ご夫婦での旅のようだ。
電話で明日の便の予約をするが、なんと大阪行きは満席とのことで、東京行きになる。その先は着いてから考えることにする。
4・8月31日(水)
6:00起床、7:00朝食、浴室を撮らせてもらって、9:00出発。奥入瀬渓流へ、まるで若葉のようなみずみずしい緑の中を、ぬうように走る。この緑が一気に紅葉するのかと、想う。
[奥入瀬渓流]十和田湖からの流れが、深い谷間をぬう水量豊富な渓流になっていて、約14㎞にわたって遊歩道が設けられている。若葉から紅葉あるいは降雪まで楽しめる観光名所。道路も併走しているので、体力や時間によって自由に歩く距離を選ぶことができる。
2時間歩き、後は車を走らせながら少し歩く。ベンチにすわって、昨夜つくってもらったおむすびで昼食にする。
[谷地温泉]日本3秘湯のひとつ、との看板につられて立ち寄る。年月を経た木造2階建て、湯治客専用のような小部屋が並んでいるが、宿泊は予約ですでに満員。チケットを買って入った温泉は、もちろん木造だがこれまでよりはるかに小さい。壁に入り方の解説があって、ぬるい1の湯に30分~1時間入って、次に熱い白濁した2の湯は5~10分、最後に上がり湯をしっかりかけて出るのだとある。
最初は気付かなかったが先客が、人形のように入っておられる。視線すら動かない相手に、頭は下げたが話かけもできず、15分で切り上げて、2の湯へ、5分も持たない。早々に出たが、硫黄の臭いがしっかり身体に残った。疲れがとれたと言うか、かえって疲れたと言うか、どちらも肯定したくなる。
以上のひなびた3温泉は、観光地化された温泉しか知らなかったこちらには、驚きであった。やはり訪ねてみるものだ。入浴・各600円。
笠松峠を越え、八甲田らしい山並みを眺めるとあとは下るだけ、展望台で一休みして青森空港へ。レンタカーを返却して、カウンターへ。大阪行きのキャンセルはなく、ともかく東京へ飛ぶ。
夕日に輝く雲の上を飛んで、久しぶりに羽田へ。すぐに着陸したがターミナルまでが遠い、延々と走っている。外国の空港のようだと思う。
JAL1208 青森17:15~羽田18:45
[羽田空港]何十年ぶりの羽田、まるで浦島太郎だ。特にターミナルを移動すると、その広さや設備の充実ぶりにあらためて驚く。この大きさと賑わいは、明らかに世界のハブ空港のものだ。ここを日常的に利用している人は、日本の国際都市は東京しかないと思うのは当然だろうと思ったりする。
それだけ日本の他の都市とは違っている。これを感じただけでも、来た甲斐があったとRさんが言う。こちらは、「がんばれ東北」がいつの間にか「がんばろう日本」になってしまうのも当然かもしれないと思ったりした。
大阪行きのつもりだったが神戸行きがあるのでそれにする。夕食を済ましてから、搭乗。
ANA415 羽田20:15~神戸21:20
雨の中、タクシーで自宅に帰る22:00。3日ぶりのわが家、シャワーを浴びて寝る。
最後に、めったにないことに観光地を訪れ、その旅で気付いたこと。
[日本の観光]
日本の観光というと「おもてなしの心」だと、和服の中居さんがずらりと並んでお辞儀をしたり、にっこり笑ったりする。それはウソっぽい、それをノウハウにしてはならない。
今回、こちらの旅で感心したのは、駅で乗り換えの時刻と駅名を書いて渡してくれたこと(複雑だからメモが必要だ。そのためのメモ用紙まで用意されていた)。忘れ物をした私に対応してくれた改札や事務所の人、忘れ物を当然のことと受けて熱心に探してくれる、探すシステムが用意されている。そして何より、実際にその忘れ物が当然のように出てくること。
出発の時間を聞いてからメニューをすすめてくれた店の人。それを気付かせないように軽口で笑わせてくれること。数人で違うメニューを1品ずつ頼むと、取り皿を人数分用意してくれる若い店員さん。
さらに、被災地を見せるとも見てくださいと言わずに、ゆっくりと回ってくれた友人。また、自分たちのこれからの大変さを、この人に言っても仕方がないと笑顔で他愛のない話に受け答えしてくださった被災の人たち。自分には何も関係はないのに、ボランティアに来たというだけで親切を、また大変な歓待をしてくださる人たち。
そのような普通の人が普通にみせる、思いやりや親切、それこそが世界には絶対にないものだ。
だから日本に観光に来れば、日本にいる間はあなたも日本人のようなよい人にならなければならない。というより、あなたも日本に来れば、日本人のように「いい人」になってしまう。それが日本という国なのです。ということではないかしら。
東北の旅
2011年8月27日
[旅の前に]
突然ですが、明日早朝から東北に行きます。
いえ「東北に行ってみたい。福島は無理だけど、あの津波の跡をこの目で確かめてみたい。風の音や臭いなど、行ってみないとわからないことがある」と言ったら、私もそう思うという人がいて専門職の相手がボランティア先を探してきて、行き先と出迎えを確保した。そうするともう一人、私も連れて行ってという人も出て、結局3人で出かけることになりました。
ともかく仙台空港で3人が集まり、迎えの車に乗って気仙沼に向かうことになっています。2人は仕事があるので、長居はできませんが、ともかく東北にこの身をおいてみることができます。ありがたい、うれしいことです。30代、50代、70代の3人という構成もめったにないものでしょう。帰ったらご報告いたします。
(中国の旅を、ばたばたとまとめた理由もおわかりいただけたと思います)では~。
中国・寧夏の旅で思ったこと 1108
2011年8月26日
中国・寧夏~ 20110801~0806
寧夏の旅で思ったこと
ちびまるこちゃんのおじいちゃん
中国と日本、お互いのイメージが良くないと言われている。その反映なのか、以前よりツアーの観光客は少なくなった。結果、就航する飛行機もずいぶん小さくなって、通路が真ん中に1本だけで座席は左右に3席ずつ、まるで国内線のようだ。帰りの北京の空港では、広大な空港の端っぽまで歩かされた挙句、階段を下りてバスに乗るというローカル路線の扱い。日本へのイメージがここまでさせるのかと思ったが、バスから見えた機はとても小さく、あ、これでは搭乗用の通路を付けることができなくて、仕方なくこうなったのかもしれないと思ったりした。
とはいえ、寧夏で訪ねたすべての学校や村々は、私たちを並んで出迎え、熱烈な歓迎をしてくれた。心が通い合っているあいだでは、変わることのない信頼があって、国家間のトラブルやイメージなどに影響されることはない。子どもたちの笑顔は底抜けに明るい。また銀川や固原という日本では名前すら知られていない町の商店や食堂や公園で会った人たちは、とてもにこやかで、こちらが日本人であると知った後にも、それはまるで変わらない。目の前にいる人同士の、信頼が自然に生まれてくる。
イメージだけで判断してしまう間違いを、あらためて思った。そうしたい人や、そうすることで発想を決めてしまう人は、何時の時代にもいるのだから、せめてそういう人の勝手な発想に振り回されないようにしたいものだ。
ところで旅の間、通訳のアシスタントをしてくれた寧夏大学の日本語科の女子学生さん3人が、最後になってこちらのことを「ちびまるこちゃんのおじいちゃん」に似ていると言っていたのだと、打ち明けてくれた。こちらはその顔を知らなかったけれど、それが親しさの表明であることだけは、よくわかってお礼を言った。帰国して早速、グーグルでその顔を確認したのだが、あまりのおじいちゃんぶりにどうしようもないことだがちょっと悔しかった。けれど彼女たちに、こちらよりも詳しく親しみを感じている日本があることは、とてもすばらしいことだ。
*通訳のアシスタントをしてくれた学生さんと、先生(西吉のカフェにて)
まだある。銀川の本屋さんでは、村上春樹の「1Q84」が平積みされていたし、帰りの中国航空の機内誌では「数独ゲーム」が掲載されていて、日本で発明され世界的になっているというそのゲームのやり方を、こちらは今になって初めてメンバーのひとりから教えてもらった。まるで、おじいちゃんのように。 (少し変えて、関西日中の会報に掲載)
羊の一部始終
張易鎮という町、皆さんは中学の先生方と話し合いをなさっているが、こちらは町を歩くことにした。町はずれの運動場のような広場に、市がたっていた。食べ物から日常品や衣服まで何でもあるのだが、中に肉屋さんがあった。といって木の柱を立て張り渡した針金に、牛らしい赤い肉がぶらさがっているだけの場所。屋根もなく直射日光が当たり放題、中年の大柄な美人の奥さんが笑顔で出迎えてくれた。土の上には茶色の毛皮と、すでに息をしない羊が2頭。その旦那らしい男が解体を始めたので、取り囲んだ数人の人と一緒に拝見することにした。
息をしなくなってからある程度の時間が過ぎ、血はすでに抜かれているようだ。おそらく牛1頭、羊2匹とここまで一緒に歩いて来たのだろう。刃渡り20㎝くらいの外に湾曲したナイフで、足首を切り血管を結ぶ。対角線のそれも同じように切り、その血管に足踏みフイゴを差し込んで、空気を送り込む。みるみる羊はボールのように丸くなる。そして解体がスタートする。
お腹の毛皮にナイフを入れて、少しずつはがしていく。触らせてもらったがやわらかく生温かい感触に、ちょっと厳粛な生滅を祈る気持ちになる。これは作業している彼も同じようで、もう笑っていない。尾の前というか背中に大きな肉塊がある、これは知らなかったが上等な場所のようだ。やがてバックスキンのカーペットの上に白い肉が横たえられているようになって、そこでお腹にやっとナイフを刺して、内臓を取り出す。肝臓、胃などなど沢山の灰色のそれはもう部位もよくわからない。そして腸を引き出していく、それは引いても引いても続いて、その長さにあらためて驚いた。これは腸詰め・ソーセージに使われるのだろう、大切に扱われていた。そして皮を頭の部分で完全に切り離して、フックをつけバーに吊るす。そして頭を切り取って終了。地面に毛皮と、頭と内臓が残される。
気になっていたのか、作業をした主人が撮った写真を見せてくれと言ってきて、熱心に見て納得していた。とてもいいものを見せてもらった、お礼を言ってその場所を離れる。思い出してみれば、昨年は湖南省・永順の市場で鶏やガチョウの解体を見ていたし、魚の解体は日本のお店でもつい見てしまう、自分ではめったにしないけれど。その都度、自分も動物のひとつだなぁとあらためて思ってしまう。こちらはもうシワシワで、食べられることはないだろうが~。
輝ける都市
(未)