旅の記録 の記事一覧
SriLanka1602・旅の前に
2016年4月11日
20160205~25 SriLankaTravellanka
SriLanka(Anuradhapura~Kandy~Galle~Colombo) ~KualaLumpur
スリランカ(史跡地域~キャンディ~ゴール~コロンボ)~クアラルンプール(マレーシア)
(旅の前に)
1.「航空機のチケット」をパソコンで手配するようになって、トラブルもまた多い。今回、格安航空なるものを一度利用してみようと、その最大のAirAsiaを利用することにした。関空~クアラルンプール。そこからコロンボへ、ホームページもよくできていて、座席まで指定することができ、すっかり満足した。ところが、しばらくしてコロンボ便が変更になり、とんでもない深夜の到着に。結局、それは止めて他の会社の便にしたのだが、そのホームページにはキャンセルの方法がない、高い勉強代になってしまったと覚悟したが、しばらくして日本語のメールが来てキャンセルすると言ったが、つまり認めてはくれたが、すでに引き落とした後で返金(4万円)はなし。
さらに、それによってホテルの変更など、仕方のないことだが、面倒なことがあれこれと多かった。英語が喋れないのはやはり悔しいことだ。
2.「旅行保険」何時ものように買いに行ったら、年齢区分が細分化され、70代はもうまともな契約はできなくなっていた(80代になったら、さらに厳しくなり、もう旅は止めろという扱い)~なんとも悔しい。
あらためてこの国では、個人旅行が想定外になっていることに気付くことになった。やれやれ~
3. 旅の計画は、まず中央部の史跡地域(文化三角地域と呼ばれている)、その南の紅茶の産地(山のある高地)、南海岸の植民都市・ゴール、そして首都のコロンボという行程。ツアーではこれを5泊6日で回る。こちらも、それをなぞっているに過ぎないが、バスだとずいぶん時間がかかりそうで、ゴールは行けそうにない?
~ところが実際は、タクシーの乗合や3輪車のチャーターで、最初の史跡地域の予定を大幅に短縮することになった~急ぎ過ぎたと思うほどだ。それで、ゴールにも、ゆっくりと行くことができた。
201511竹原~大崎上島~下島~大三島
2015年11月18日
今年2回目の「民家を訪ねる旅」に行って来ました。こちらが30~40代の頃、写真家の山口正作さんを中心にした仕事仲間で、休日に徹夜で車をとばして能登半島や四国の山奥まで出掛けていました。当時は、過疎化が進んでいるとはいえあちこちに茅葺の集落が残っていて、住んでおられる住宅を見せてもらっていました。
当時、いちばん若かったワーチャンが今回定年になったのをお祝いしての計画、前回の四国は直前になって、肝心の彼が行けなくなったので、再度の挑戦という5人連れの旅です。
まず広島県の竹原市、ここは町並み保存地区になっていて観光客も多く、以前にも来たことのあるこちらたちはその変貌ぶりを話しましたが、このように残されていることは大変にありがたいことです。
そこからフェリーで大崎上島へ、山田洋次監督が「東京家族」のロケ地として選んだ場所で、瀬戸内の原風景が残っています。さらに、フェリーで大崎下島へ、ここは当方も初めて。その御手洗地区は江戸時代からの海運の中継地としての町並みが残っています。山のせまった狭い場所に、家々が細い路地に立ち並んでいる趣のある風景に、傾いた太陽が光を投げかけてくれて、すばらしい景色を見ることができました。
もう一度フェリーで上島に帰って、温泉のある清風荘に宿泊。高台にあるそれは高度成長期の名残と思っていたのですが、いまや観光の波にのって結構な繁盛。中国からの客もあるとのこと、翌日の朝食時には白人の4人連れがいました。ともかく露天風呂からの瀬戸内の眺めは、はるかに島なみ街道が見えたりする、どこにもないすばらしさです。
翌日の午前中、木次地区の集落へ。ここはますます荒れ果てて、最初に見た時から比べても、大きな変化で、びっくりしました。3階建ての町並みが、わずかに残っていましたが、これももう数年で消えていくだろうと思いました。そこからフェリーに乗って、愛媛県今治市になる大三島へ、ここには伊東豊雄博物館などがありますが、月曜日でお休み。道の駅でミカンや野菜を求めて、島なみ街道に乗って帰って来ました。
関西からの1泊の旅としては、知られていないなかなかのコースです。
旅の合間に/オスカー・ニーマイヤー回顧展(東京都現代美術館)
2015年8月26日
オスカー・ニーマイヤー回顧展 2015/08/24.
東京都現代美術館で、オスカー・ニーマイヤー展をやっている(10月12日まで)とのことで、久しぶりに上京してきました。いえ、2年前彼の作品を見るために2週間ブラジルを歩き回ったこちらとしては、見逃すことはできません。
会場構成がSANAAとのことでしたが、作品の選定にまで関わっておられるようで、とても好ましく思いました。とはいえ、やはり感じたことは少なくなく、何より沢山ある彼の作品から、たったそれだけ?というほどに厳選されていて、さすがと思うとともに、残念と思うこともまたありました。
それはともかく、こちらの感じたことを少しだけ~。
彼が北半球の人だったら、建築の歴史は違ったものになったと思います。
当然のことですが、ニーマイヤーの作品を実際に見た方は、他の世界を代表する建築家に比べてはるかに少ない。ですからそれは写真などを通して見ることになります。つまり映像を通して理解したものが、彼の建築となっています。というか、北半球の建築の状況の中に、それをあてはめて見てしまいます。そこで、写真ではわかりにくいことを、ひとつ。
彼の建築は、歩いて近づくことがメインになっています。
私たちは、無意識のうちにりっぱな建築は自動車で近づくことを当然に思っています。でもニーマイヤーの建築の中央玄関へは、歩いて入ることが求められています。
展覧会で、メインの展示となっているニテロイ現代美術館やイビラブエラ公園、ブラジリア大聖堂は当然だと思われるでしょうが、あのブラジリアの国会議事堂も、中央の玄関へは欄干のない広い歩道を歩いて行くことになっています。そこを人が通っているのを見ると、あらためて、この建築の大きさに気付かされてしまいます。
それは思っていたより、はるかに小さいというか、人間サイズの建築です。地階を含めて3階建てでしかありません。ちなみに自動車で行くと、建物の端っこの地階に着くようになっています。また議事堂にそびえている2本のビルは、厚みも長さも建物としてはどう使うのかなと思えるほど小さく、視覚用に用意されたものだと思いました。
またブラジリア大聖堂は、地下に降りて行く暗い斜路をしばらく歩いた後、突然ガラス張りの大聖堂が開かれると言う仕組みです。
ニテロイ現代美術館は、その全景を海から遠望するポイントで見ていると、入り口の斜路がこちら側に回っているために、そこを歩く人間が建物に比べてはるかに大きくなって、巨人が小さな建物に近づいているようでちょっとびっくりします。
いずれにしろ、どれも相当な距離を自分で歩くか、車椅子で押してもらわないと入れない、そういう設計になっています。
このことは意外に、私たちが建築を見る時に、忘れてしまっていることのように思います。現在話題になっている、国立競技場についても、そのことを知っていたら、もっと違うものが選ばれたのではないでしょうか。~実は、SANAAの作品も、提案され最後まで残っていて、公園のようなところを歩いていく案であったように思います。
ベトナムで思ったこと・知らない町KonTumへ行く
2015年6月25日
ベトナムの旅で思ったこと・知らない町KonTumへ行く
今回のベトナムの旅は、10年前にハノイにハノイの民俗学博物館の庭にあった、びっくりするような大きな屋根の集会所を、実際に建っている場所で見ようと思ったことからスタートした。これがダナンの近くにあるとのことを写真家の小松さんが教えてくれたことを思い出したのだ。
とはいえ、それ以上のことはよくわからない。博物館で求めた本ではKon Ronと呼ばれ、集落の中心に建てられる公民館というか集会所、祭りや行事の時などに使われるものらしい。ネットでは、commural houseと呼ばれて結構たくさんあることはわかっただけだ。
現地の旅行会社も知っているところはなさそうだ。ネットで返事してきた唯一の会社に、行き方を尋ねていると3日間のツアーの計画が出てきた、700$。こちらがじじいのひとり旅とは知らないからだろうが、これでは乗れない。それはダナンに着いても同じ、友人が紹介してくれたガイドさんも、写真すら初めて見たようだし、周辺の観光地以外のことはまるでご存知なく、結局そちらをすすめてくれる。
唯一、ホテルの女主人が、それならバスで、それのあるコンツムKonTumの町まで行けばいいのではないかと言ってくれた。そこまで行けばなんとかなるだろうと言う。行ったことはないようだが、ごく当然の提案だ。それ以外の方法はなく、それに従うことにした。呼んでもらったタクシーはバス乗り場をぐるぐるまわって、これがコンツム行きだとマイクロバスの前に着けてくれた。それ以降のことは、日記に書いた通り、信じられないほどに簡単にうまくいったのだが~。
だが、とても基本的なことを忘れていたこと、それで周囲の人に大変な迷惑をかけたことを申し訳なく思った。自分の不安を棚に上げて、周囲のよく知らない人に聞きまわって、誰も知らないと文句を言っていた。そんなことより、先ずは知っている人がいるだろう場所まで行けばいい。公共交通機関があるきちんとした都市があるのだから、ともかくそこまで行き、そこで尋ねるのが基本だろう。~その国を信用してやって来たのだから、そこが事故なく運営している公共バスを信頼しなくて旅などできっこないではないか。
かくて行ってみれば、そこでは誰でもが知っていて、町の中心にはモデルハウスが建っているし、町のシンボルマークに使ってPRしていた。バイクやタクシーの運転手さんは、当然でしょうと案内していた。ダナンとは県が違っているためか、観光の情報がまるで広がっていないようだ。このあたりの情報が全国に広がっている日本とは違っているというか、私たちの常識とちょっと違っている。
結局のところ、ひとり旅をしていると言っても、誰かがすすめる場所、あるいはガイドブック(地球の歩き方)のすすめに従って行っているに過ぎない。最近は、研究者のレポートに従って行くとか、英文のガイドブックlonely planetで出掛けることすらなかった。
はたして、それが旅といえるのか、ブーアスティンの「イメジの時代」を思い出した。せめて、そういうことを思い出させてくれたことを、ありがたく思うことにした。
201505・ベトナム(ホーチミン~ダナン~ニンビン~ハノイ)・旅日記
2015年6月15日
20150507~18
Vietnam(T.P.HoChiMinh~DaNang~NinhBinh~HaNoi)
*通貨donは、ゼロを3つ取って、5を掛けると日本円の価格。
1・5月 7日(木)バス 六甲Id.発 7:18 KIX着 8:20(予約より早い便に乗る)
ベトナム航空VN321 大阪発10:30 ホーチミン着13:50
連休明け、予想通り空いていて、6:30自宅出発1本前のバスに乗ることができ、8:30には搭乗口に到着。お茶を購入~日本のペットボトルは丈夫だから持参して、入れ替え用として使用します、大正解。
席は通路側だが、隣の窓側は空席、あっという間に到着、近い。3万両替。バスで市内へ(10,000dドン)15分歩いてホテル。10年ぶりのホテルはまるで変わらず、4階の川を望む端の部屋。ダダッ広いのがうれしい。
・ホーチミン宿泊・Riverside Hotel Saigon
一息ついて外へ。ドンコイ通り、郵便局で切手(きれいなのがあり)絵ハガキを購入。大聖堂の裏側から旧大統領府を見る。その前の道、バイクのラッシュ。
夕食はフォー。ケーキとコーヒー。19:00部屋に帰り、ノート。通りは車とバイクの洪水が続いている。河畔を歩く人、遊覧船と貨物船。対岸にネオンの看板。うれしい。
2・5月 8日(金)
5:00起床6:00日の出、すぐに雲の中。公園思ったほど人はいない。フェリーもなくなり(橋ができた)きれいになったが、物足らない。朝食後、散歩に。バイクの洪水の道を渡ろうとしたら、リンタクのおじさんが一緒に渡ってくれた。だがこちらが歩くと付いて来て、そこは禁止地域、こっちを歩けとうるさい。つまりほとんど禁止地域、散歩や運動の人が少ない訳だ。ホテルの外観を撮って、結局リンタクに乗って帰る(彼の計算通りだ)。
陸橋を付けて、河畔の公園が以前の賑わいを取り戻すことを願うばかりだ。簡単なことだと思う~。
ホテルをチェックアウト、タクシーで空港に。何度も言ったのに、国際線で降ろされ国内線まで歩く。英語はまるで通じない? というより、空港のことを何も知らないのかも? 250,000d
ベトナム航空VN116 ホーチミン発12:10 ダナン着 13:30
国内線、結構混んでいる、喜ばしいことだ。タクシーでホテルへ150,000d。日本語で挨拶されてビックリ(ネット予約で窓が大きいと選んだのだが、ラッキー~日本人客が多い)、(女社長さんが日本留学したとのこと)。
紹介されていたガイドのキーさんに電話、4時にホテルに来てくれる。セダン族のKon Ronという集会場を見たいという要望。ここから訪ねるとお金と時間がずいぶんかかる。1泊旅行で5万円。近くの別タイプの集会場を提案され、それをさんざん薦められ、明日出発ということで別れる。日本に留学したというホテルの社長さんは、コントゥムの町までバスで行くことをすすめてくれる。
夕食は声をかけてくれた、ひとり旅の東京の女性と一緒に。お鍋を注文、おいしかった。息子と同年令、父上より高齢と言われる。連休時に来て、明日帰るとのこと。もっといろいろお話を聞きたかった~
夜、ひとりになって、やはり本来行きたかった場所へ(代替物・ニセモノで我慢せずに)行こうと決心。バスが走っているのだし、その地域の中心都市なのだから、ホテルもあるだろう。日本のガイドブックに紹介されていないだけで、怖れることはない~テメェ怖がってるだけではないか!そういう町に、これまで何度も行っているではないかと思ったりする。最近そういう旅をしていないだけで、すっかり老いたなぁとあらためて思う。
・ダナン宿泊1・DaiA Hotel
3・5月 9日(土)
申し訳ないと旅行社の車を断って、荷物はホテルに預けて、タクシーでバス停へ150,000d。大きなバス乗り場を、2度ほどまわって、あるマイクロバスに横づけ、これに乗れと言う・それがコントゥム行き。
ほとんど客のないまま出発8:30。でも途中、乗ったり荷物を預かったりして、ほぼ満席に(その人たちは途中で降り、最後までいたのはこちらだけ200,000d(1000円)。途中昼食休憩。トイレと食事、ここで運転手が交代。山道を登り、峠を何度も越えて、高原地帯の人の多い地域になる。やっと町に入り、そのロータリーの中央にKon Ronが建っていて、思わず大声をあげる「アッタ」~隣の人に、カートゥという町だと教えてもらう。さらに小1時間走って無事コントゥムに到着。予想以上に大きな都市だ。
バスを降りるとタクシーやバイクの運転手に囲まれる。中年のいちばん信頼できそうなおっさんにホテルに行ってもらうことにして、ちょっと待てと建物の陰に招いて、坐りこんでリュックを降ろし、ファイルを出してKon Ronの写真を見せる、ここに行きたいのだと。なんと知っている。今から行ける、何軒もあると言う。案ずるより産むはやすしと言うか、この旅の目的が簡単に達せられることに、秘かに欣喜雀躍する。
お値段は300,000d(1,500円)ヘルメットをかぶり、バイクに乗り、おっさんの腰に手をまわして出発する。まずホテル、安物だが寝られさえすればいい、でも一応部屋は見せてもらう。トイレシャワー付き窓の眺めも悪くない、200,000d(1,000円)。そして、いざ出発!午後4時、まだ日は高い。
バイクの運ちゃんは、ホウさん55才。戦争時は15才、戦ったかはともかく愛国少年だったに違いない。
コントゥムの町、県の中心だから当然だが、結構広いしタクシーも走っている。まず大きなカテドラルに行き、それを見ろと言う。それは言ってないと思うが、彼なりの思惑があるのだろうと、決してセンスがいいとは言えないそれを見る、キリスト教が浸透しているのだと、思いをはせる。
そして大きい橋を渡って郊岸へ、こちら側は少数民族・セム族の地域のようだ。やがて集落へ、高床・茅葺の住宅、昔ながらの生活が営まれているようだ。電気も来ていない?子どもたちは学校に行くのだろうか?ともかく別世界。バイクを降りて歩くと突然、大きな屋根のコンロンが現れる。村の中心広場にそれはある。誰もいない。上がっていいと言われ、お言葉に甘える。屋根材は薄いゴザ状、木組みも細い。が床を支える柱や床材は分厚い木材。そこに上がる丸太の階段は、とても魅力的。床の間のような場所には、ホーおじさんの写真、政府の認定証のようなものが掲げられ、祭りの捧げものも見える。やっと来て見ることができたと、感激する。
広場の一方に教会がある。これは後から作られたものだろうから、遠慮がちに建てられてはいるが、こちらが生活の中心になっていることは、見て取れる。
民家に住民はいるが、こちらを無視している。裏手が川につながっていて、その河原に出てみる。きれいな流れ、母子が牛を歩かせている。昔と変わらぬ生活が営まれている。町の人とどう付き合っているのだろう。
タクシーがやって来て、中から3人ほど降りてくる。このように訪れる町の人を、彼らはどう思っているのか、どう折り合いをつけているのか、そのあたりを知りたかったが言葉がない。
続いて、もう1軒。こちらはやや高い岡の上。少し古く、階段などちょっと荒れた箇所があり、国家の認定書?があったりした。また隣に教会がやはりある、どちらも維持するのは大変だろうと思ったが、それは異人の勝手な発想だ。
そしてまた橋を渡って町へ帰って来た。そのたもとに、保存された1軒があり、こちらは装飾や文様の塗装が施されている展示用だ。それを金網越に、また年期の入った鉄橋を撮る。
さらにその町の自慢らしいキリスト教の施設・聖マルチン学園(教会・学校・修道院)へ。戦争を越えた施設のようで、中央の教会部分は改造されているが、それ以外は建築当初のものらしく、のびのびとした木造漆喰と瓦葺が見事な建築だった。聖マルチンの彫像は篭を背負っていた。また周囲の木々も時代をへていて、とても落ち着いた空間になっていた。訪れる人も多く、街イチバンの名所のようだ。
これで見学は終了。明日は、8時に来てもらうことにして、ホテルで降ろしてもらう。
夕食は、ホテル隣で店頭に貝やえびを並べて家族連れで大賑わいのレストランへ。あさりと巻貝、それにビーフンをもらう。なかなかいい夕食だった。向かいの店で水をもらって帰る。ぬるいシャワーを浴び、シーツだけの掛けふとん、窓を開け放して横になる。蚊はいなかった。ほんとうに長いうれしい1日だった。
コントゥム Hotel Viet Tram
4・5月10日(日)
6:00起床、朝食を兼ねて散歩へ。ホテルは鉄戸が閉まっている。近くでフォー(昨夜のレストランも閉まっている)。そのまま散歩、大通りのロータリー公園にカフェがあるので、コーヒーにする。他のお客さんに挨拶、皆さん40~50代、60才が一人。こちら70才と言ったがもっと若く言うべきだった。
8:00昨日のホウさんが来て出発。バス停に、いや半日回ってよと交渉するが、これがダナン行きの最終、次は明日になると言う。結局、それに乗ることに。もっと町を見たかったのに~さよならホウさん 50,000d。
バスは昨日と同じ運ちゃんクルゥー、再会を喜ぶ。若いカップルが乗ったりして、明るい雰囲気。途中のコンロンのあるロータリーを、ゆっくり行ってよとお願いしたら、なんと停めてくれ写真を撮らせてくれる。食事休憩後写真を撮ったら、とてもうれしそう!
4時、ダナン到着。わかるだろうと、市内バスにセントラルと叫んで乗ったら、途中わからない場所で降ろされる。川を訪ねて結構歩く。やっと博物館前に出て、アイスクリームをベンチでなめたりして~ちょっとイタリアの感じだ!ホテルに帰る。
再会を喜び、無事目的を達成したことを報告、社長さん(写真左)にお礼を言う。部屋は前と同じ部屋。また旅行会社ホウさんに連絡して、無事行って来たことを報告、できれば前金を返してと言う。あきらめているのだが、結局その日遅く、別の人が来て、返してくれる。ちょっと申し訳なかった。こちらの勇気のなさが、迷惑をかけたのだ。夕食は、前回の食堂(フォーなど)、そしてコーヒー、ひとりはやはりつまらない。
ダナン宿泊2・・DaiA Hotel
5・5月11日(月)
6:00起床、朝食(客はすっかり変わっている)。8:00出発、ダナン大聖堂1923年建立というが?(化粧はし直し?)郵便局でハガキ投函(後からハノイで出したのと同時に着いたとのこと、ずい分時間がかかった)。大劇場、市場2つ、新SC(ショッピングセンター)など~市場でTシャツ2枚。
歩いてチャンパ博物館(改装されて、窓にガラス)セキュリティのためで仕方ないことだが、以前がはるかに快適だった。
庭のカフェでお茶(近くで中国人のグループがお茶会・一人が立って長々と喋る熱弁、代わってまた一人が話す、その繰り返し。絶対に対話にならない。彼らの対話の方法だろうが、国家も同じだなぁと思う)。
ホテルに帰って一休み(ついお相撲のテレビを見る)。5:00また大聖堂へ、ミサをやっていて内部を見る。
夕食はホテル前(豚肉オムレツ付ライス、スープ)。部屋で洗たく、ノート、ハガキ。前金の返却が届く!
ダナン宿泊3・・DaiA Hotel
6・5月12日(火)
6:00起床、朝食。社長さんと話す、東京留学・神戸震災時、大阪にいたとのこと。8:00河畔を散歩。カフェ。9:30タクシーで出発。早く着き過ぎて、何もない空港で1時間以上待つ。機は立ち寄り便、前客が多い。
ベトナム航空 VN164 ダナン発11:20 ハノイ着 12:40
ハノイ到着、リムジンバス、客少なくなかなか発車しない。行き先を告げ(空港は市の北側、行き先は南側)タクシーにする400,000d/2000円。バス乗り場に無事到着。ミニバスがすぐに出発。
Bus (約2時間)50,000d/250円 ハノイ発14:00ニンビン着16:00 ニンビン宿泊・Hoang Hai
一緒に降りた若い女性が心配して、ホテルへのタクシーを交渉してくれる。~ホテルは歩き方を参照・老舗H。
無事に到着、部屋は正面3階・1泊270,000d/1350円)。夕食は外へ、大繁盛の大衆食堂(焼き飯野菜炒めスープ)満足。コーヒー(Time・広く快適な喫茶店)~以後何度も行った。
7・5月13日(水) ニンビン宿泊・
ホテルの主人に相談。ファッジェム教会30km~タムコック8kmを回ることに、タクシー600,000d/3000円。
その前に銀行で両替・200$/4,300,000d。そして出発、すぐに郊外、水路が張り巡らされ、水量も豊か。のどか。
ファッジェム教会到着。前面に大きな池。十字架がなければ、まるで寺院。内部の木造列柱、窓枠や格子などのディテールも東洋風で面白い。確かに「越洋折衷」(藤森さんの解説)。個人の見学者は多いが、観光バスは来なかった。最後に売店によってみると、外人が来たと声をかけたらしく、修道女さんが絵はがきと解説書を持って来られる。話をするが、こちらの英語力が申し訳ない。戦争は大丈夫であったこと、キリスト教信者が多いこと、など。パンフや絵はがきなどを購入。
出発、水路にかかった屋根つきの木造の橋、茅葺の民家などの写真を撮って、
タムコック(ベトナム語で3つの洞窟、陸のハロン湾との観光地)へ。まず運転手さんと昼食(フォー)、そして観光船~一人なので270,000d/1350円。鍾乳洞のトンネル、頭上すれすれ結構スリリング。船頭さんは女性、両足でオールを漕ぐのが、なんとも愉快。40代子ども3人、1日1回で150,000dとのこと、チップを要求される。また記念用スナップを撮られる(乗り場に帰ると、紙焼きができている!)と、楽しんで、帰ったのは4時。昨日のカフェでケーキとコーヒー。夕食はホテル(レストラン、土地のお客多い)で名物という、おこげ飯のあんかけ。
8・5月14日(木) ニンビン宿泊・
他の観光(最初の首都など~)に行く気になれず、町を歩くことに。博物館(庭に大盆栽)、裏の公園と展望台(鉄橋をハノイ行き列車が走る)。中心部の教会、列車の駅とバス駅(時刻表を見て、やはりバスにする)。
昼食は、駅前の木陰の食堂が素敵でつい入ってフォーを頼むと、インスタントラーメン(ここらは外人旅行客が多い)。悪いけど食べずに(お金は払いましたが)、最初の日に行ったお店で食べ直す(こちらが安くて、はるかにおいしい)~我ながら年寄りの嫌味な客だ!ゴメン。そして通りをゆっくりと歩いて、また何時ものカフェ(ケーキをもらい、ゆっくりする)。これだけで1日が終わる、なんともうれしい。夕食はホテル。
9・5月15日(金) ハノイ宿泊・Conifer Hotel
Hoang Haiホテルをチェックアウト、手書きの明細書がうれしい。現金で支払う1,167,000d(6,000円足らず)。3泊、ずいぶん親しくしてもらった。歩いてバス停へ。ミニバスに乗せられる、すぐに出発。客はこちら一人?ここでも荷物を積んだり渡したりしながら進む。ハノイ・バス停到着、タクシーと交渉して、ホアンキム湖へ、とても懐かしい、帰って来たという感じ。歩いてネットで予約したホテルへ、Coniferは針葉樹なぜか結局わからず。部屋は小さいが正面の2階、街路樹が目の前で気持ちいい。落ち着いたところで、町へ。
中央郵便局のポストに絵はがきを投函。湖畔のオープンカフェ、建物は変わっているが同じ場所。変わらぬ雰囲気。以前泊まった安ホテルの場所には5つ星大ホテル、女主人と親しくなったブティックも消失。オペラ劇場は変わらず(土日に歌のコンサート)。夕食は昔の食堂を探すが、よくわからず。でもいい店を見つけて満足(以後2度行く)。また路地奥の安食堂は変わらず(翌日行く)。その前の道端で切り紙細工を売っていて、つい購入。隣の本屋さん(以前もあった)で地図と英文の簡単なクッキングブック。
10・5月16日(土) ハノイ宿泊・Conifer Hotel
夜中に雨、結構降っていた。朝食8:30、オペラ座で朝安いチケットを購入(1,000,000d/5,000円これは国際価格?)。そのまま町へ。通りの2階テラスにカフェを見つけて上がる、快適。下町の商店街へ(知っているつもりが、昔の市場がわからず。まるで違う場所に出る。10年間の変化を教えられ、あらためてガイドブックに従って商店街を歩く、Tシャツ(Good morning Vietnam)などを求める。疲れて部屋で過ごす。
オペラ座7:30開場 8:00開演だが、開場しばらくは誰も来ず。内部の写真を撮る。開演直前に満席30分遅れの開演、終演は11:00。何人もの歌手、どうも歌はいろんな言語のようだが挨拶はみなベトナム語、人気維持にはそれが条件なのだろう。とくに老ピアニストの引退?公演らしく何度もアンコールを受けていた。こちらはアンコール途中で抜け出す。部屋で入浴、就寝は12:00。最後の夜なのだ。
11・5月17日(日)~深夜発
7:00起床、朝食。テラスで絵はがきを書いてから出発。商店街。欲しいものもない。休日の湖畔、やはり人が多い。日本語を話したい学生さんのグループ、日本から出張中のサラリーマン氏に会う。少しの買い物。
半日延長したホテルに帰って18:00シャワー荷造り18:30出発、バス停へ。20:00空港到着、新ターミナルがらんとして誰も(係員も)いない、上階で食事(スープと春巻き)。21:00降りると人でいっぱい、それに驚く。通関、売店でdonを使い切って、搭乗、結構混んでいた。
12・5月18日(月) ベトナム航空VN320 ハノイ発 00:20 大阪KIX着 06:40
関空到着、通関、ひとり旅は珍しいのだろうが、今回もとがめ口調、ちと悔しい。
バス停、停まっているバスが六甲行きで、乗ったらすぐ出発。帰宅9:00、信じられぬ便利さだ。
これまでのベトナム
第1回 2004.01.30~02.21. ホーチミン~南部デルタ地域~ホイアン~フエ~ハノイ~ハロン湾
第2回 2005.02.04~02.24 ラオスからハノイ~北部のサパ地域~ハノイ
今回が3回目2015,05.07~18 ホーチミン~ダナン~奥地のコントゥム~ニンビン~ハノイ
(航空機のチケットをネットで購入、こちらの旅では初めての経験)