旅の記録 の記事一覧
「地中海」読書の旅/3
2009年5月29日
(思ったこと)
そんなにきちんと読んでいないのにあるいはそのためにと言うか、ヨーロッパを見る目が少し変わったように思います。気候や自然に恵まれた特別な地域だ、だから文化が発展するのは当然だと、最初に訪れた時に信じてしまったことが、世界の他の地域と同じように普通に見ることができるようになったと言うか、目からウロコを落としてくれました。
ともかくこの時代、ヨーロッパは(も、と言うべきでしょうが)大変に貧しい地域だった。食料が取れる地域は限られ、人はみな飢えていた。治安は乱れ、陸路を行けば山賊が、海には海賊が出るのが普通の状態、正規の軍隊もそうゆう行動をしていた。戦争という状態と戦争がない時との差がないというか、強盗という職業が成立していた。(3世紀後の歌劇カルメンの仲間も、現在のソマリア沖の海賊も、その時代においてみると、ごく当然の行為ということになるのだろう。9条の思想とは関係ないように思えたりする)
また奴隷という制度があるために、戦に敗れると人は連行されて人生がまるで違うものになってしまう。ガレー船の漕ぎ手はそういう人たちが多い、だから無血開城なんてありえない、徹底抗戦のみということになる。そういうことだからこれまで気付かなかったのがおかしいのだけど、レコンキスタの後に残された回教徒(モリスコ)が大変な運命にもてあそばれたこと。ユダヤ人やロマ(ジプシー)など、この地には人間でない人間がいる。その常識から、この地域の人はまだ離れることができない。忘れられた蔑視意識(選民意識の方がいいかな、いずれにしろ無意識だろうが)が時に出ることは仕方がないのだろう。
(これは当方が勝手に思っていることだけど、この地の人たちはこれから何世紀にもわたって、植民地などで行ったツケを払っていかなければならないことになる筈だ、ご愁傷さま)
ただそこに住んでいる人と、征服者というか支配者(税金を取り上げる人)とはまるで関係ないと言うか、くるくると変化していく施政者を住んでいる人はどう見ていたのだろう。戦争や征服はお金の都合で、行われたり中止になったり、撤退したりしている。施政者は住む人のことなどまるで考えていないようだ。住む人とは関係なく国家は変わっていく、それ故にと言うか住む人の文化(宗教や習慣)は守られていく。
喋れないからそこに住む人の心はまるでわからないけれど、いろんな国に征服され続けた辺境の地域、シシリーやチュニジア(前回の旅)、サルジニア、コルシカ(これから行こうと思っている)などを訪ねてみたいと思うのは、その痕跡を感じたいためかなぁと、あらためて思ったのであります。
とはいえこの時期、モンテーニュは城館に住みながら(つまり施政者でありながら)、人間を深く見つめて、現在の私たちを感心させる文章(エセー)を残している。だから、どのように見えようと現在とそんなに変わらない人間の行為なのだと、あらためて思うのです。
「地中海」読書の旅/2
2009年5月28日
(紹介)
フェルナン・ブローデル(1902~1985年)「地中海」の帯には、「20世紀の最高の歴史家 不朽の名著、決定版完結 近代世界システムの誕生期を活写した『地中海』から浮かび上がる次なる世界システムへの転換期=現代社会の真の姿(全5冊)」とあるのですが、この解説から必要ですね。
この本(原題は、フェリーペ2世時代の地中海と地中海世界)は1550年から1600年までのわずか半世紀のことを描いているだけです。日本なら関が原の前の50年間。この時期を境に、ヨーロッパ世界は地中海中心から大西洋から世界全体をとらえるものへと変わっていく、その転換期を描いたという訳です。事件としてはレパントの海戦でトルコが敗れ、新教とカソリックの戦争がナントの発令で終了、英がスペイン無敵艦隊を破り海上支配権が変わる、という時期~。こう書くと歴史好きの方はもうわかった気になると思いますが、それは「出来事、政治、人間」に過ぎないとして4と5にまとめられています。
歴史はそれだけではなくもっとゆっくりと百年単位で変化していくものがある。それが2と3の「集団の運命と全体の動き」で、人口や情報の伝達の方法、通貨のもとになる金や銀の供給と価格の変化、それによる商業と物流、なにより食料はどういう状況にあったか。国家とはどういうもので何をしていたのか、そして戦争とはどうゆうものであったかを見せてくれます。
さらにその舞台である地域はどういう状況にあったのか。山や平原そして海は、島や半島はどうであったか。地中海にはどこまでの地域が関連しているか。人はそこでどのように生きていたのか。気候と歴史。都市と交通路。ゆっくりとしか変化しないことが、「環境の役割」として最初の1にまとめられています。
つまり全5巻は①3つの尺度で世界を眺めることの必要性、また②国単位の歴史では世界をとらえることはできないことを示して、歴史の概念を変えてしまった。それが不朽の名作と言われる理由です。
また彼は第2次大戦で捕らえられ、その捕虜生活の中で記憶だけで第1稿が博士論文として書かれたことも、大きな話題を呼びました。1949年自費出版、1966年第2版発行。
わが国では1991~95年にかけて翻訳(浜名優美)発行され大きな話題を集め、手に入れやすい普及版(当方が求めたもの)が2004年に発行されました。巻末には各界の専門家による解説や感想が加えられていますが、それだけをまとめた「地中海を読む」も発行されています(1999年)。
「地中海」読書の旅/1
2009年5月28日
(ご報告)
全5冊の分厚い本をやっと読みました。いえ読んだとはとても言えない、ただ1ページ1ページをめくり、途中で眠くなったりよくわからなかった箇所があってもそのまま読み進んで、どんどん忘れながらともかく前に進んで最終ページに到達した、やったぁ~というのが正しい。それにしてもなんという遅さ、ごめんなさい。途中で旅をしたりしましたから、なんて理由になりませんが。
結果として幅15cmが書棚を占拠している、もちろんそのために見えない棚に追いやられた同じ量の本があるのだが、いまはともかくちょっと満足しています。おそらくもうこんな本を読む機会は、もうないだろうと思ったりしながら~。
で、せっかくだから、この本をちょっと紹介することにします。これもまた旅のひとつだと、写真も撮りました。
イタリア(シシリー島)~チュニジアの旅で思ったこと
2009年4月14日
*シシリーのマークです、3本の足は3つの岬を表しているとのこと。
1. 旅の必需品
何度も言っていることだけど、旅の荷物(もっぱらキャリーバッグ)は、自分で列車の網棚に上げることができる大きさに決まっている。日本のお店では旅行日数によって大きさを決めているが、それは他人が運んでくれるツアーが前提になってのことだ。自分で運ぶとなればそうはならない、日数や季節による持ち物の変化も、この大きさに合わすしかない。衣服も限られるので、下着は古くなったのを残しておき旅の途中で捨てていくことにしている。そういう状況でも旅を続けているうちに、他の方とはちょっと違う必需品ができてしまった。それをご紹介します。
まず「折りたたみ式のバケツ」、もちろん洗濯用。これは世界を旅している写真家の小松義夫さんにすすめられたものだが、ホテルの洗面台や浴槽にゴム栓があるとは限らない、着替えの少ない身には洗濯ができないのは大変に困る。以来その教えは忠実に守っている。だがインドの地方などいかにも必要と思える地帯は意外に大きな洗面槽やゴム栓がしっかり用意されていて、むしろ先進国の新しいホテルの方が格好はいいが金属の栓がよく閉まらなかったり、とても小さかったりして、このバケツを使用することが少なくない。付属品として折りたたみ式の吊り具も忘れられない。荷物が小さいということは、洗濯の回数が多いということ、洗濯をするために旅していると思うこともある。
次に、今回の旅でも活躍したが「自転車のチェーン」、これは数時間だけある町を見物しようとした時に必要になる。一時預かり所や大型のロッカーがあればいいが、それがない場合にこれが活躍する。そんな危ない、取られてしまう、と皆さん言われるがこれまでのところ無事だ。こちらが使うのは観光地、誰でもが荷物の主はいま観光中だと気付くような場所だ。そこのなるべく目立つ場所に、よく見えるように取り付ける。バス停や待合室のベンチなど、できれば見える場所にお店などがあってそこの人が気付くような位置がいい。預かるのを断った人ならなおいい、ここに付けたと笑って挨拶できたら安全度は高くなる、彼らが知らないよと言いながら、見ていてくれるに違いないから。
日本なら倉敷や有馬温泉の駅のベンチにあれば、きっとこれは観光客のものだと思ってくれるに違いない。もっともこの国では人間を信用しなくなって、持ち主不明の荷物は大騒動になる可能性があるけれど、世界の人にはまだ同じ人間同士だという信頼感が期待できる。
そして今回、これからは必需品にしようと考えたのが「プラスチックのケース」。クッキーや陶器のお皿やわら人形など、壊れるからと持って帰るのをあきらめるものが少なくないので、そのために持参することにした。お菓子屋さんでは、ビニールの袋かせいぜい紙箱しかないことが多いので、それを入れるしっかりした容器が必要になる、でも100円ショップは存在しないし、文房具屋さんにファイルのケースがあるとは限らない。今回はアイスクリームのカップを思いついたけれど。小さくて結局お土産にはならなかった。やはり、持参すべきだろう。かさばるけれど、中空のまま運ばなければなんとかなるだろうと思っている。
写真のお裾分けで申し訳ありませんが、求めてきたそのクッキーをご覧ください。松の実とビスタチオそれぞれ一粒一粒さしていったに違いありませんから、大変な手間です。これをなんと量り売りしてくれ、そして何より1週間以内でないとおいしくなくなると賞味期限を心配してくれました。
それにしてもわがキャリーバッグ、石畳の道をひっぱられたりバスの座席下の荷物入れに押し込まれたりして、ほんとうによく働いてくれている。
2. お店だって休むわよ
昨年からイタリアを旅しているのだが、その生活時間のズレはやはり慣れない。それはどうももっと深いところにある意識とつながっているようで、変更は意外にむつかしい。
こちらには繁華街に行くとそこは日常とは違う場所で、買い物と食事が同時に提供される特別な空間という意識がどうしてもある。物欲と食欲は一体になっていて満腹になると物が欲しくなるし、買い物をすると一休みしてそこで出てきた食欲を満たそうとする。繁華街という装置はそれを一緒に提供する場所という思い込みがあって、それから脱け出せない。たぶんそのためだろうと思うが、朝食を済ましたばかりの午前9時に商店が開いても、買おうという物欲は働かない。
そういうことにはお構いなく繁華街の商店も朝9時には開いて、お昼には閉まってしまう。それは働く人のお昼休みの時間で3時か4時にまた開くのだが、今度は朝から開いていたカフェや簡単な食事を出してくれる店は午後6時には閉まってしまう。つまり物欲と食欲はまったく違う行為として存在している。言い直せば繁華街の商店も、食料品などを売る市場の店と同じように扱われている。いやもっと言えば、お医者さんもサラリーマンも役所もみんな同じ働く人なのだという認識で成立していると言えそうだ。
こちらの頭の中に、お医者さんが診察時間は午前中と夕刻ですと言えば素直に従うのに、商店だと「あれっ」と思ってしまうところが、やっぱりある。その上、このところの世の中の意識は消費者側を優先して、そこで働く人のことはあまり考えない。働く人の生活より、消費する側の便宜、顧客満足度を考えて当然と思っていて、開店時間を長くする、地球の裏側の便宜を考えて真夜中勤務もまた当然と考える、などますます働く人の生活を圧迫している。彼らも私と同じで家に帰れば家族がいて、そろって団らんをしたいに違いないのだが、そこに思いいたる人は少ない。
このところはさらに百年に一度の不景気だからと、景気回復のためならすべてを犠牲にして当然と考えるのが常識になっている。そこに無意識だが商店に対する蔑視というか、階層意識が刷り込まれているのだろうか、あ、そういう意識があるから正社員と派遣社員を別の人間と分離して見ることも平気になっているのだろうか~など、と思うのだが。それを言うと、じゃあなたは不景気でいいのかですかと反論されてしまいそうだ。
とはいえ、意識では以上を理解したつもりでも、朝から歩き回ってお昼をつい簡単にお弁当ですましてしまう習性が身についている農耕民族の末裔のわが身には、太陽が沈むとぱったり元気がなくなって、8時近くならないと開店しない高級リストランテまで、とても待つことはできない。幸い中心から遠いシシリーやチュニジア(フランス文化だ)では、6時半には開く家族向きの大衆食堂があってその一号客になることができる。
パレルモの大衆食堂、6時半もう30分もすると家族連れでいっぱいになります。10人くらいの大家族もいたり、大変にぎやか、ほとんどお店の人とも顔なじみ。かまで焼くピッツアもあります。
そして夜10時前にはもうトロトロになってベッドに倒れこむことになるのであります。
3. 無意識の蔑視
チュニジアはもちろんシシリーでも、日本人というか黄色人種が珍しいらしくいたるところで声をかけられた。というよりチノ(中国人)、ジャポネがいるという驚きの声があがる。最初のうちはジャポネだと訂正していたが、そのうちあまりに多いのでどちらでもいいと思うようになった。彼らにとってその差はほとんど理解できないようだし、実際見た目で言えばこちらにもわからない。また国として理解している人も少数だし、経済発展は中国もしているからますます似た国になっている。
とはいえこのところ若い人の間では違っていて、マンガの国から来た人だと尊敬のまなざしになる。そうなるとこちらもうれしくなって日頃のどちらかと言えばマンガ嫌いは棚にあげて、それを広めた方たちのご貢献に甘えることになってしまう。確かにテレビを見ると、アニメの技術についてはまだとても大きい差があるようだ。こういう場合は、名前をカタカナで書いてあげて仲良くなることにした。先方にアラビア文字で書いてもらうのも、なんともうれしい。
それにしてもジャポネと言われた途端、手を触られたのはびっくりした。悪気がないことはすぐにわかったのだが、どうも不思議な動物の一部に触ってみたい欲望が素直に出てしまったようだ。相手は遠慮という言葉を忘れた中年のおばさんたち(群れ)であったのだが、そういう遠慮の必要のない動物に見えたのだろう、ご本人は意識していないだろうが一種の蔑視だとその時に気付いた。自分たちよりもちょっと下の存在というか、愛玩の動物の感じがしたのだろう。それにすぐに仲間になろうとする一般的な私たちの態度、商店街では「オゲンキデスカ、ヤスイデスヨ、ミルダケ」と声がかかる、こういうことを言われる国民も考えてみればとても珍しいことだ。
ということを経験して、戦後多くの先輩たちが世界に散らばっていろんな商品を売り込んだ、その結果としての経済発展という果実を得たのだが、その成功の何分の一かにこの意識されない蔑視がうまい具合に効果を上げたのではないか、元サラリーマンとしてはそのように思った。この陳腐な動物が一生懸命にお願いするのだから、「ま、聞いてあげるか、それくらいいいだろう」。がんばった先輩たちはお認めにはならないと思うが、それは悪いことではないとあらためて考えた。
私たちはそういう類まれな才能を生まれながらにして持っている稀有な人種なのだ。あらためて世界にあるどうしようもない紛争や問題を解決するのに、意外にももっとも貢献できるかもしれない、と意識したのでございます。すでにそれを実践なさっている方が、多くはないだろうけどいらっしゃるに違いありません。
Italy(Sicilia)~Tunisia 0902~03・下
2009年4月3日
12・3月 1日(日)チュニス
7:00起床、カメラを持って甲板へ、肌寒いもうアフリカは目の前。
食堂でコーヒー、皆さん入国カードを記入中。英文をもらいに行くが仏文で結局すべて書いてくれ、感謝。9:00到着、通関、200eur両替。佐藤さんと一緒に歩いて電車駅、市内へ。彼と別れ通りのカフェで朝食。ホテルで荷物をあずけ、カルタゴ遺跡へ(明日は月曜で休み)。船の中の人や佐藤さんにまた会う。
ゆっくりと見て、誰もいなくなった遺跡のカフェでノート「カルタゴ遺跡は土の中、どれがローマかカルタゴか、今はすべてが夢の跡」実際、遺跡として見えているのは、どちらかわからない。
途中の電車で学生4人(会話もノートも仏語だった)と親しくなり(彼らが老人に席をゆずり、こちらも真似した)、カルサージュに行くならドゥッガにぜひ行けと地図にチェックしてくれる(これは行くべきだろう)。ホテルで浴槽にゆっくりつかる(この旅で最初)、夕食は近くでスープ、クスクス、スィート、コーヒーで5d(350円)安い。ああチュニジアの夜だ、それにしては安ホテルだが。
Hotel ElOuiwa泊 70d
13・3月2日(月)チュニス
3:00寒い、毛布をかけ改源、7:30,起床9:00出発、旧市街メディナへ。
商店が並ぶが欲しくなるようなものはない、グランドモスク(中庭を見るだけ)など。抜けたところは首相官邸、国会など官庁街。
昼食は新市街、2階レストランが1階に立ち食いカウンター。オムレツやシチューなど日替わり、サラダも豊富。うまい安いで感激5d(写真を撮ったら叱られる)。通りでフレッシュジュース2d。夕食は昨夜と同じ店・カルカソンヌ魚のグリルほか14.5d。部屋でお茶。 Hotel ElOuiwa泊 70d
14・3月3日(火)チュニス~スース
チェックアウト駅へ。切符・2等か?と何度も念をおされる(外人は1等に乗るのかな?)9:05発スース行11:00着。別に危険もなくごく普通に清潔。駅前を歩き出すと、タクシーが止まり客の女性、大丈夫かと聞く、常識外れなのだろうか?ホテル17.5が15になる(値切っていないのに)安ホテルだが中心広場前。早速に町へ、iで地図をもらい、モスク、リバト(城壁・塔は修復中で上れない)博物館は休館。
フランス人観光客が多い。昼食は土地に人たちと一緒に、肉と玉子入りお焼き(結構いける)、直射日光強く何度も休む、カプチーノ、フレッシュジュース。夕食はレストラン(春巻き、スープ、エスカロップ、オレンジ1コで10d)。夜、アイザーンの声、寒い、気温がどんどん下がる。
Hotel Hadrumate泊 15d
15・3月4日(水)スース~ケロアン
海岸を散歩、ホテルが並ぶリゾート地(西欧の観光客はこちらに泊まっているのだ)。地図を見てバス停まで歩けると思ったが、間違い、結局タクシー。バス11:00発でケアロン13:00到着。ここからは歩く(遠距離バス停は郊外、中心部まで歩けたりとんでもない距離であったりする)ホテル(1泊のみ)決め、昼食(スープとオムレツ)(魚のスープ、おいしいのでどこでも一応頼むことにしている)、市内(城壁に囲まれたカスパ)を歩いてみる、店は沢山あるが欲しくなるようなモノはない。夕立、衣服に砂の跡、スゴイ。夕食はスープとトリ、デザート。お茶の時をふくめ、甘いものをよく食べている。夜は暖房、快適。 Hotel Splendid泊 28d
16・3月5日(木)ケロアン
5:30アイザーンで目覚め、8:30近くのホテルへ移り、出発。博物館1日共通券・グランドモスク(アフリカ最古、柱はローマ遺跡のもの、いい中庭だが祭のため中央部にテント、残念。写真を見て想像)
27日間でエジプトからモロッコへ抜けるツアーの一行に会う、ゴリッパ。・シディサハブ霊廟(内部は壁床天井タイル、欄間は大理石で別世界を築いていて見事~タイルはイスファハン、大理石彫刻はインドに負けるけれど)学生さんが修復のバイト中、塗り方は雑。アニメ専攻で日本人とわかるとマンガと言って尊敬のまなざし。作業着にお互いが落書きしていたので、各自の胸に名前をカタカナで書いてあげた。外に出て広場の先のカフェから遠望すると、これから行くジェルバのモスクに似ていて驚く。
昼食は小ピッツアとコーラ、夕食は羊のシチューとデザート。また大変に人気のお菓子屋あり、その製造をしばらく眺め、食べさせてもらう(後で知るが全国的に有名なお菓子・マクルージュ)。
ひとり旅の若い女性・千夏さんに会う(チノチノと言われ名前を呼ばれてるようだったとのこと)。
充実した一日だった、こういう日があるから旅は止められない。 Hotel Tunisia泊 25d
17・3月6日(金)ケロアン~ジェルバ(バス9時間)
よく眠った。窓から見える最初に泊まったホテルから仏人団体が出発中、みんなで荷物をバスの屋根に積んでいる、昔のインド旅行を思い出す(日本のツアー客は絶対にやらないなぁ)。8:00もう客の消えたホテルから出発。タクシー。曇天、冷たい風(こういう天候周期的だ)。チュニスからのバスは満席、10:30発。隣はイケメンの若者(最初は無愛想だったが、英語を話しとても親切だった)。途中休憩2度、こちらはサンドにコーヒーなど。ずいぶん遠回りして(橋を渡る)到着19:30。
最初断られ2軒目の安ホテル、夕食は近くの食堂でトリ、まずい。部屋でお湯をもらってケロアンの菓子で落ち着く(翌日、ホテル主人に上げたらとても喜んだ)。 Hotel Hadj泊 20d
18・3月7日(土)ジェルバ
まずiで観光地図、駅でバスの時刻、両替。11:30民族博物館(フランスの協力か見事な建物と展示。絵はがき冊子など購入、中庭のカフェで休み満足ご機嫌)海岸の砦(小松さんが言う夏の海の色をしのぶ)木陰の庭のカフェ、公民館(少年たちダンスを披露してくれた)
民家風(フォンドゥック様式)ホテル、民芸品の店(いい店は1軒だけ、ドイツ3老女と一緒に選ぶ)夕食は魚グリルなど15。
Hotel Hadj泊 20d
19・3月8日(日)ジェルバ
最初に断れた観光客地区のホテルに移る、テラス付の部屋。タクシーで島を巡る・ミドゥン(古いモスクを博物館として見せている、白がまぶしい、外観は要塞のよう)・マヌビヌ(同じモスク、こちらは現在も使用中)
・エルメイ(トルコ様式のモスク、商店街といってお土産屋集合)・グリバ(シナゴーグ・厳重な入り口、内部はステンドグラスとタイル)・露天市(ひなびた露店に沢山の人、商品はプラスチックなどの工場品で民芸品は失われたようだ、食品とその籠だけがこの土地ならではのもの)・アジム(南西端のフェリー、発着を見る)以上で40(約2800円)。昼食(土地の店と思ったら観光客用メニュー、高いがおいしかった。夕食にまた出掛け、土地の人用のメニューを要求して賞味)。
・町を歩いていて迷い、いくら歩いてもホテルに帰れず2時間、自分に腹が立つ(立ち止まって地図を見れば、どこで間違えたかすぐにわかった筈なのに)これも認知症か? 部屋でお茶、お風呂。
(名前につられただけですが) Hotel Palmesd’Or泊 30d
20・3月9日(月)ジェルバ~チュニス
8:00チェックアウト、駅へバスは8:30発。昨日のフェリー乗り場、30分で本土、オリーブの植林が見事、等間隔で延々と続く。11:30、13:00と2回の昼食休憩。ケロアンではお菓子の屋台で停車、沢山の人が買っている(同じものが、他の町ではとても硬い)。17:30無事チュニス到着9時間の旅。
新しいのを探すのも面倒で以前のホテル、憶えていてくれサービス価格になる。夕食も前回行ったカルカソンヌ、憶えてくれている。やはりうれしい。 Hotel ElOuiwa泊 60d
21・3月10日(火)チュニス
8:00朝食、昼間勤務のフロントのお姉さんと再会を喜ぶ。両替(銀行の女子社員の態度悪くて叱る)、
メトロで、バルドー博物館。さすが世界に誇るモザイク(stone paintings)の展示。観光バスで乗り付ける大変な人に驚く。
昼食は市内に帰って、前回行ったカウンターの店でオムレツ4、満足。
旅行会社を探すが、結局、船のチケット買えず。歩き回って疲れてすわったカフェでコーヒー6高い、誘われるまま坐ったチョンボ。夕食も高くまずくてチョンボ、どうも疲れると判断力がにぶる。
Hotel ElOuiwa泊 60d
22・3月11日(水)チュニス
最初の日カルタゴ遺跡へ行く電車ですすめられたドゥッガへ。5:00起床 6:00出発、満月が西へくっきりとした姿のまま沈むのを見ながら、メトロで北バス乗り場へ、ケーキとコーヒーの朝食 7:00発のバス5.74。北西部は丘陵で緑が多く豊かな感じがする。9:00遺跡へ行く分かれ道で、ひとり降ろされる。
カフェがあったので、水とパンを購入、車を呼んでもらって遺跡へ(言葉はお互いまるでわからないのに何とかなるものだ)。9:30無事到着 (12:00に迎えを頼む)入場券(4+撮影1、どこでもほぼ同じ)を払って進むと、海を望む丘陵に遺跡が並んでいる。ローマ時代、2~4世紀1万人が住んでいたという。劇場、凱旋門、神殿、住居跡、そしてコリント式の列柱と破風が残るキャピトル(神殿)とゆっくりと回る、風が吹き渡って気持ちがいい。
やはり来て良かったと、タイマーで記念撮影。バスが何台もやって来て、説明員と共に歩いて1時間くらいで去っていく、こちらはネスカフェのコーヒーで休んで車を待つ。
バス停まで送ってもらい10(チップを渡すまでもなく喜んでいた)、別の人がここで待てと言う(なにか大きなシステムがあるようだ)。やがて誘われてマイクロバス(リアージュ・乗り合いタクシー)で出発12:40。隣の男性は英語が話せるので、こちらの感想と質問もしてみる。「フランスは好きか」「・・・」やはり一言では語れないようだ「みんなそうか?」「ウン」。こちらの言葉不足を詫びる。14:40チュニスに帰着、メトロまで一緒に歩いたが、満員の電車の中でわからなくなり、お礼を言えぬまま別れる。
旅行会社で、パレルモ行きのチケットを購入(昨日はパソコンが停止中)(お金が足らず両替に走る)。ともかくこれで明日出発ができると、ホッとする。カフェで休んでノートをとる。夕食はカルカソンヌで、今日はアラカルトだよと魚のグリル、それでも11.5。部屋で紅茶久しぶりに11時まで起きていた。
Hotel ElOuiwa泊 60d
23・3月12日(木)チュニス~パレルモ
9:00出発、オフィス街へ行ってみるが特別の感慨なくショッピングセンターも魅力ない。12:00ホテルをチェックアウト。昼食はカウンターの店でエスカロップ。お土産!老舗のお菓子屋で手の込んだクッキーを見つけるが、大紙箱のみ(アイスクリームを入れるカップに入れてもらったが結局自分用)と商売気のある小箱を用意した店(これを少し)。メディナも歩くが買うものなし、困った。
行くところなく早いが港へ。電車駅から歩くが、結局タクシーで到着16:00。残ったお金は待合室で使うしかなく、絵葉書CDを求める。カフェのお兄さんと親しくなりカタカナで名前を書いて上げると、次々に仲間がやって来た。18:00受付開始で搭乗券にすると、こちらのチケットは個室、高かった筈だと今になって気付くお粗末。だがお金が足らなくて旅ができないわけではない、なら一度くらい個室の船もわるくないと、ひそかなあこがれを満足させて、ご機嫌になる(単純だなぁ)。通関と荷物検査(こちらは簡単に通してくれるが、自国の人にはとてもとても厳しい)。
あこがれの個室は真正面(操舵室の階下、小さな窓から舳先が見える)のツイン、シャワー付。早速に写真を撮る。前回のそうだが、船の出発はよくわからない。カフェでお湯をもらってお茶にする、もう23:00。(たくさんの船室はほとんど空室だが、両側は人の気配) 船中泊 146d(円)
24・3月13日(金)パレルモ
窓が明るくなり目覚め6:30、洗面、廊下は寝ている人でいっぱい(寝体累々)。客が行ける広い甲板なく、船室の小さな窓から眺める。9:00港に近づく(そこで逆向き、後ろから接岸10:00)。出ると上陸を待つ人で大混雑、もう一度船を散歩。気付くと西欧人はさっさと降りたようなので、こちらも日本人を主張して前に出してもらう(こういう時に日本人であることを感謝する)。11:00上陸。
ホテルは角部屋スゥィートで満足90。町の外れに民族博物館がある?ので出掛けてみる、苦労してバス乗り換え最後は2km歩いて~休館中。途中で昼食パスタ(観光客のいない町で、それなりに満足6)夕食はピッテリア20。シャワーは四方八方からお湯の出る方式(2度目、エッチな快感)10:00就寝。
Hotel Tonic泊 90
25・3月14日(土)パレルモ
6:30目覚め、9:00考古学博物館、10:40マッシモ劇場見物コース(卒業旅行の学生さんも2人)、昼食はヌーボー門のカフェでサンドイッチ。あとは買い物だけ、食料店を見つけてパスタ材料など、いろいろ教えてもらう。夕食はピッツアも焼いている大衆食堂、家族連れで満員。ツナサラダ、エビとイカの揚げ物(うまい)、デザート25(途中台所に案内されるなど歓待される、満足)。部屋でお茶。
Hotel Tonic泊 60
26・3月15日(日)パレルモ
6:00目覚め、最後の日、といってもうすることはない。マリオネット博物館は日曜閉館(チョンボ)、市場をのぞく(ツナ缶など食料品を買う)、昼食は中国料理の店でビーフンとお茶(久しぶりでやはりおいしい、箸をもらう)、夕食は昨日と同じ店でシチュー(魚を箸で食べる・台所で皆さんを撮影)デザートで15(なぜかその値段、皆さんに感謝)部屋でお茶とクッキー、長い旅だったと感無量。
Hotel Tonic泊 60
27・3月16日(月)AZ1782便;11:20 パレルモ~12:30 ローマ(ターミナル A)
AZ792便:14:10 ローマ(C)~09:45 大阪(関空)(C)所要11:30
6:30起床、荷造り(やはり重くなった)8:00出発。バスは8:30、空港到着9:30。パレルモ発30分遅れて、心配する。関空便(隣席は空いたままラッキー)、その隣はフェンシング世界大会(バーリ)参加の学生さんたち、とくに話すでもなく過ごす。
28・3月17日(火) 09:45 大阪関空到着
無事到着したが、わがバッグはアテネへ行ってしまったとのこと、2日後無事帰って来た。