旅をしている人
田原 晋

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旅遊びの合間, 公開講座の旅

旅遊びの合間・公開講座11

「米国先住民アートの知的財産問題」 伊藤敦規 民博助教

 

 今回はアメリカ先住民(アリゾナ州・ホキ族)の話。彼らは部分的には州政府より上位の自治権が与えられている居留地に住んでいるのですが、そこで唯一の現金収入として作る銀細工のペンダントが知的財産問題になっている現状が紹介されました。あきらかなコピー商品が、世界中に出回っているのです。

それは問題だと思いましたが、聞いてみると仕方がないというか、この市場社会では当然のコピー商品です。彼らが作るのは、銀のむく(無垢)板を彫刻して作る一品制作。それに対して、コピーは薄板の打出し製品、おそらく価格は10分の1でしょう。またプラスチックの金属色塗装なら、さらに10分の1の価格も可能です。それが世界的に行われているとすれば、たぶん相手を特定して知的財産問題と取り上げることは不可能でしょう。

 銀のむく板への彫刻の価値のわかる人だけが、それにふさわしい対価を支払って購入するが、同時にコピー商品もそれなりの市場を確保していくでしょう。~と、思いましたが、言っても仕方のないことだ、と黙ってしまいました。それが午前中。

 

 午後は、彼らが来日して民博を訪問した話になりました。その交流が、お互いに思いもかけぬ新しい事態を生み出したという話題で、これが実に刺激的でした。

 民博の収蔵展示しているものを見てもらったところ、その使い方、種族間による違いが示されて、それによってこちらの思い込み違いや、展示の仕方の誤りがわかったりした。またその蒐集時(研究時の)映像を持参して現地で皆さんに見てもらったところ、そこに使われている道具や材料が、現地ではすでに失われていて、そういうものであったのかと感心されたり、先方の歴史認識の誤りを指摘することになったりしたとのこと。つまり民博の生活道具を収集・保存していることが、先方にも役立つことがあるというお話で、民博の意味というか価値に、あらためて気付かされているというお話でした。

 

 最後に感想はともとめられたので、民博、できた時はとても感心して足を運んでいたのだが、だんだんつまらなくというか埃っぽくなって、来ることがなくなっていました。でも今日のお話を聞いて、民博の新しい価値というか、これまでにない役割に気付かされて感動しました。ここは民族の文化を保存したり守ったりする場所で、私たち日本のためと同時に、いえそれ以上に収蔵されている民族のためなのですね。

 いま世界は、経済が発展し、昔からの文化がどんどん失われています。世界の各地ではそれをなんとか保存しようと、いろんな試みがなされています。こちらの気付いている例でいえば、東欧の各国には必ず民家園があって、そこが文化の保存地点になっています。なぜそんなに熱心なのかと思ったら、そこにしかその国の伝統文化が残っていないようで、国家の存立基盤を表明できる唯一の場所なのですね。だから国をあげて熱心にそれを守っています。子どもたちは必ず訪問し、休日には食事や衣服や民謡踊りなど伝統文化を紹介しています。

 それと同じことが、ここ民博にあると教えられて、その役割の大きさに感動しました。いまも世界各地には紛争や破壊が絶えず起こっていて、それが失われています。それをこの場所は、守り、収集場所の方たちと一緒になって維持、発展させる場所になるのですね。

民博を含めて、私たちの文化人類学の研究場所は、研究者の思いにまかせられていましたが、もう少し戦略的な場所選びも、必要になってくるのかなとも考えました。これから時々は訪ねるようにいたします。ありがとうございました。

 という質問というより感想を述べたのですが、先生にも意図が伝わったようで、とても刺激的なひと時でした。こちらとしても、万博公園は散歩か民芸館だけのものでしたが、今後、民族博物館にも時々訪れてみようというという気になったのは、とてもありがたい、うれしいことでした。

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旅遊びの合間, 公開講座の旅

旅遊びの合間・公開講座10

「アフリカの布と商人 植民地交易から現代のアフリカ・中国貿易まで」 三島禎子 民博准教授」

 

 まったく知らないブラックアフリカの話ですが、モロッコの南に接するモーリタリアとその南のセネガルから話がスタートしました。モロッコでそこから来たと言う海外青年協力隊の方に会ったことがあって、先生もそこに5年滞在することから研究をスタートしたとのことで、親しみを感じることができました。

 

 布と商人について、講義は古代からの交易、そして植民地交易へ。奴隷という新商品も、農産物や鉱物と同じように扱われ、それぞれに仕組みが整備されていきました。それらを担ったのが、ムスリム商人とも言われるソニンケ民族で、ガーナ、マリあたりの出身ですがアフリカ各地から世界(フランス、マダガスカル、イスラム諸国からインド、香港)へひろがっていきました。華僑と並ぶ交易民族といえます。苗字からそれがわかるらしく、先生はそのネットワークでアフリカ各地へ出かけることができたとのことで、その実際の話などはまるで冒険小説のようでとても興味深いものでした。

 結果としてアフリカでは布を作ることはなく、すべて輸入によることになってしまいました。アフリカ民芸と見える色柄もすべて輸入商品だそうです。また一面としてアフリカは物価が高く(2.5倍くらい)、貿易(小さな取引から大きなものまで)がやりやすいものになっています。~そのことがアフリカの貧困を救えないものにしている一面があると思うのですが、それは今回の話題ではありません。

 

 またフランスの移民事情についても触れられましたが、外国生まれの人が530万人、移民2世(フランス国籍を持つ)が650万人で、全人口の19%で、ドイツとまったく同じなのに驚きました。

 

 と同時に、日本の外国人労働者へ対する考え方の浅はかさ、というか将来についてまるで考えられていないことに危機感を持っておられるようでした。

 先生のお考え「世界の人がやって来る事態に対して、差別はしないが区別する。区別しながら、共存する」というご提案についても、具体的な方策を伺えなかったことが、とても残念でした。

 

 さらに、その先生から見て、日本は人口の減少をどうするかが大問題なのに、そこで経済伸長を目指すことはまったく矛盾する政策とのこと。そのあたりも、詳しく伺いたかったが、それは今回のテーマと違い過ぎたのがとても残念なことでした。

 

 

 いずれにしろ、スタート時点で、こちら側のあまりの常識のなさがお話を深くすることをすべて遮ってしまったようで、何より申し訳なかったというか、ほんとうに悔しいものでした。

 ともかく現地を草の根から見ておられる民博の先生のご意見を、日本の政策にもっと取り入れて欲しいものだと願ったりしました。

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旅遊びの合間, 公開講座の旅

旅遊びの合間・公開講座9

「オセアニアの紛争」 丹羽典生 民博准教授」

     当日は、吹田の民博集合、講義の後に実際の展示も見ながらの講義。朝10時に阪急山田駅到着、何時ものように万博公園西口から入って、プラタナスの並木道をゆっくりと歩いて、民博に行きました。お気に入りのコースですが、この行き方はこちらひとりだったようです。

 

 さて講義は最初に、オセアニアとはどこかの確認から。5万年前にはできたそうで、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの3つに分かれています。人類は、ここに数千年前から進出したようで、DNA分析によって、その経路まで推測されています。つまり、ハワイもイースター島もトンガ王国もタヒチも、みんな共通の祖先から生まれています。

    ですが、その自然風土やその後の文化、植民地化の影響などによって、社会には大きな差が生まれています。ポリネシアは首長がいる階層的な社会、肌は浅黒くて巨大。メラネシアは階級がなく平等。ミクロネシアはそのどちらもあって、文化的に多様性があり、ここには日本語も残っている場所があったりします。

    とはいえ全体的は、とても平和な地域で、食べることに事欠かない自然環境、主食はパンの木(芋のよう)、タピオカ(芋)。また野生動物は種類が少なく、おとなしい(カンガルーのような動物も生き延びることができた)。またカヴァいう嗜好品があって、根を飲むと眠くなる。共に食べることで仲直りをする。それをカヴァ文化と呼ぶ、習わしがあったりするようで、時間にルーズなことが当たり前になっているとのこと。

   と言いながら戦争もまたあったようで、武器もまた発達した。その実物が(映像と実物で)示されたりした。なんとも扱いにくそうな大型のこん棒や斧、剣や首吊り用の紐、弓矢そして投石器、もちろん盾、そしてお面などの被り物(鎧兜にあたる)など。もちろん実用として使われたのだろうが、威嚇というかおどし用ではないかと思えるものも少なくなかった。お面は大きな舌を出していたりする。

    そして戦いの前には、ハッカという戦争ダンスをする。これはニュージーランドのラグビーチームが試合の前にする踊りとして残っている。1880年頃から行われているが、現在ではフィジーやトンガのチームも独自のダンスを考案して行われている。その映像を見せてもらったが、なんともユーモラスである。これを見事にやった方が勝利、という戦争の仕方もあったのではないかとまで思わせてくれる。閑話休題だが、源平の戦ではお互いが大声で名乗りあい、名人が弓を射って(那須与一の屋島の戦争)それで大勢が決まった例もあったようだ。また戦争文化の一環としての儀礼的な食人の風習も18~19世紀まであったらしい。

 

     講義の後、オセアニアの展示ブースへ行き、実物や映像で確認させてもらいました。民博ならではの、充実したものでしたが、こちらはさすがに疲れて、その後の館内を自由に見る時間は、大半をベンチで居眠りしていました。といって数年間に見た展示とは大きく違っていて、あらためて民博のふところの大きさに感動。あらためてゆっくり見に来ようと思いました。

     こちらの興味で言えば、済州島の民家の模型が精密に作られていて、実物が残っているのなら、ぜひ行って見たいと思いました。

 

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旅遊びの合間, 公開講座の旅

旅遊びの合間・公開講座8

「中央アジアの社会再編とイスラーム」 藤本透子 民博助教

 

 中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタンに5年間、留学された先生のお話(中央アジアには他にキルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)。社会主義体制の移行(ソ連邦崩壊)後、人々がいかに社会を再編し復興したか、その生活はどのようなものかということが話された。

 

 中央アジア、南部(ウズベキスタンなど)はオアシス地帯で、シルクロードはここを通過していて、定住民が農耕などに従事、タシケント、サマルカンドなどの歴史的な都市も点在しています。北部は草原地帯で、遊牧民が居住しています(カザフスタンなど)。

 ソ連成立1917年によって、地主や家畜所有層などの富裕層が追放され、農業集団化(コルホーズ、ソフホーズ)で、遊牧民も定住化がすすんだ。その頃、家畜の大量死や飢饉などで、人口の42%が失われたとも言われています。そのソ連の崩壊後、ウズベキスタンでは、改革は漸進的で民営化はあまり進んでいませんが、カザフスタンは、民営化、協同組合、農民経営体(独立自営農)などと変化して、それぞれに経済の混乱や格差の拡大もまた起こっています。とはいえ厳しい自然の中、相互援助は欠かせなくウズべキスタンではマッハラ(街区)、カザフスタンでは父系クラウンなどの社会関係が浸透して、日常の生活が営われています。教育の水準は高く、文盲はゼロ、大学へいく人も少なくありません(ウズベキスタン)。

 

 その日常が、カザフでの生活体験を通して(夏の馬乳酒づくり、冬の肉の保存・ソーセージづくり)などが映像で紹介されました。冬は気温マイナス30度などの厳しい自然を受け入れて、たくましく生活されています。

 

 そしてイスラームも、民族的伝統として復興され、生活の一部となっています(社会主義体制下では、次第に消滅していくとされたが、実際は限定されながら続いていました)。とはいえ、カザフでは、1日5回の礼拝をする人は少数、断食をする人も増えてはいるが少数派です。しかしイスラームの祭日・人生の儀礼・聖者廟参詣によって教徒であることが意識されています。

 そのそれぞれが、映像で紹介されました。人生儀礼では、1)生後40日のお祭り(人間になる)。2)割礼祝(徹底している)。3)婚姻儀礼(家で、そしてモスクで)。4)葬送礼拝(土葬、墓碑を建設してクアルーンを朗唱。また天幕を建てて肉料理のもてなし、馬上競技が行われたりします。聖者廟参詣もさかんに行われています、その実例の紹介。

 

 現在、イスラームは世界的に復興していて、クアルーンや預言者の慣行への回帰が見られます。一方、中央アジアでは、民族の伝統の一部として再活性化。民族・地域的特徴の強いイスラーム、伝播以前からのアミニズムを含んだものまであって、社会を再編していく結節点になっています。

 教義ではなく、日常生活に着目することで、生きたイスラーム社会への理解が求められていると考えています。

 

 

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旅遊びの合間, 公開講座の旅

旅遊びの合間・公開講座7・

「移民とともにつくる社会・ドイツでの試み」 森明子 民博教授

 

(さて今回から民博の先生による講義です。3時間の講義を一言でまとめるという無茶なことですから、その内容より意図などをご紹介することになりそうです)

 現在、ドイツで移民の背景を持つ人たちの人口は19%。また幼児では3人に1人ですから、この比率はもっと上がっていくことになります。1位はトルコ人、そして旧ユーゴ、ギリシャ、イタリア、ポーランドの順。

 戦後の経済成長の中、国内の労働力の不足(ベルリンの壁で、東独からの流入は制限)で外国から労働力を受け入れました。最初は1年契約、単身者でしたが、賃金の安さから徐々に長期化。トルコ人は、ギリシャやイタリアに比べ真面目で評判がよく増えていきました。73年には募集停止しましたが、いったん帰国するともう来れませんので、家族の呼び寄せが増えていきました。

 国籍について、血統主義は親のどちらかの国籍に、出生地主義は出生した国の国籍になる考え方。2000年に改正され後者の考えになり、8年以上滞在すると国籍が与えられます。またドイツ語教育による統合が図られるようになりました。ちなみに日本は血統主義です。

 その流れを見ると、最初は経済発展というか国の発展のために欠かせない活動としてスタートしましたが、やがて移民の増大が社会に大きな影響を与えるようになり、その要望と、もともと国内に強くあった人権尊重の考え方によって、彼らの人権を尊重することも行われていきました。その歴史を見ると、その都度に最良の策を採用した結果によって、現在になったということができます。仕方なかったと言えるでしょうが、それによって、移民の人たちと一緒になって国を作って行くことになった(そうならざるを得なかった)と言えます。

 

 とはいえ都市の移民の家族生活を見ると、経済活動はドイツで、意識はあくまで出自のトルコにあるようで、子どもの結婚はトルコの人と、親は退職後に年金をもらって本国に帰るが、子どもたちはドイツに残る。閉鎖的なネットワークが目立っています。ドイツ人でありながら、ドイツ人にならない人々とも言えます。同時にそれに反対するネオナチといわれるような運動もあって、ますますの分断や孤立を引き起こす事態もあります。

 と同時にそれらを防ぐ運動が、試みられるようになって、いろんな住民活動が提案、実施されたりしています。講義では、その具体例がいろいろ示されました。そこが民博ならではのゼミと言えるのですが。

      結論として、ヨーロッパの都市は、移民家族を組み込みながら展開していく、それしか方法がないところに来ています。

 

 以上の話を聞いて、日本はどうか。それを考えてしまいます。現在は、人手不足のため移民受け入れしか方法がないように推進されていますが、それは数年後には彼らにどう住んでもらうか、共に社会を作っていかねばならない事態になります。そのことを予測していくことが欠かせません。

     グローバルな社会が、資本やモノが自由に移動する社会だとすれば、人もまたそのように移動する社会であることも忘れることができません。

 

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